こんなこといっちゃ身も蓋もありませんが、国産メーカーなんかに比べるとハーレーは内部にいろいろな対立を秘めているメーカーですよね。旧車VS現行車、古参VS新規、バイブス系VSノンポリ系、みたいな感じで、ハーレー内部でもオーナーのスタンスが別れてる。まぁこういうのはどこのメーカーにもあることですが、それが非常に色濃く出てる傾向にあります。

「なんでそんな構造が生まれるのか?」

私が思うに、それはバイクが消費財であるが故に、必然的に産み出されていくものなんです。川が上流から下流に流れるように、成功したメーカーは、皆同じように変わっていく。その中で、変化を肯定する人々とそれを否定する人々の対立が日々生み出されていくんですね。

みなさんご存じの通り、ハーレーはその昔、とんでもなく敷居が高いバイクでした。

合格困難な大型免許という壁

高額価格設定という壁

日本の道で走るには性能面(特にブレーキ)で問題があるという壁

故障が多く安定しない品質という壁


これらの高い壁を乗り越えるためには、非常に多くの資金と我慢を必要としたので、ちょっと一般人が購入できるようなバイクではなかったんですよね。1990年頃は知名度の割に販売台数も僅か。私は当時東京にいましたが、たまに走ってるの見るのは、ほとんどが883で、ビックツインなんてほとんど見ませんでしたね。

どの業界でもそうですが、メーカーが日の目を浴びない冬の時代に、それを支えるのはごく少数のマニア層なんです。1980年代~90年代のハーレーは工業製品としては国産バイクに及ぶべくもなかったけど、日本車にない雰囲気や味わいを高く評価した一部の人達が国内におけるハーレーブランドを支えていました。

こういう方々は愛が深くこだわりも強い。決して金持ちではないけど勝負に出るときには躊躇なく身銭を切ります。マニアって好きなモノに対しては財布の底が抜けてますからね。

小規模メーカーが作る商品は、様々な問題はあるにしろ、エポックメイキングなディティールや感性に満ちています。それを純粋な商品の質で評価する人達が拾い上げ、良いモノは少しずつマイナーな存在から脱却していくんです。

当時ハーレーは名前は通っていたけど「現物は見たことないゾ」という人も多かった。ハーレーは性能至上主義だった80年代~90年代に、曲がらない、止まらない、雑な作り(国産に比べ)の三重苦にもかかわらず、とんでもない値付けしてましたから、当時の大型乗りからみても興味の対象外だったんですね。

ただ、スピードに狂っていたあの時代にハーレーのローエンド性能の魅力は今よりさらに光ってたと思うし、世の中のトレンドの逆を行っていたというまさに孤高の存在。その個性と威光は凄まじかったと思います。その一方、敷居も今と比べものにならないくらい高かったため、当時ハーレー乗ってた人は完全な親衛兵。ガンダムでいうと旧ザクのエースですね。

魔改造・下絵(今回の下絵。特段挟む写真もないのでゴミイラストでビジュアルを誤魔化しにかかります。私のブログのお約束ですね。)

こういうマニア層は知識があって、研究熱心でこだわりが強い人達が多いんです。昔から蓄積してきた知識があるから弁も立つ。少数派だから団結も強い。そういう人達が地道に良さを発信していくことにより、一定の情報量となり、メーカーの思想や文化の土壌になる。やがてその蓄積が大きな波となり、一般層がその価値を認めて一気に波及していく・・というのがマイナー商品の成り上がりの法則みたいなもんですよね。2000年代、ハーレーはその成功の波に見事に乗ったわけです。そうなると、次に来るのは何か?それは「製造数を増やす」ことなんですよ。

しかし、製造数を増やせば初期の頃にその商品が持っていた
こだわりを維持することが難しくなる。マイナーな頃の商品は多少アラもあるけど、少数製造であるが故に創意工夫やこだわりのある作り込みがなされてます。作り手のパッションが込められているんですね。

この世にはマイノリティであるからこそ、演出可能な味というものがあり、そういう味わいがマスマーケットの商品に飽き足らないマニア層から評価されてるわけです。でも、残念ながら数を作り、メジャーになればなるほど、それは徐々に失われていく。一定数を量産しようとすれば、非効率で量産に向かないディティールを削るしかないんですが、それがマニアが評価していたこだわり部分であることが多いわけですね。

「いや、良さが失われるんなら、製造数を増やさなければいいじゃないか?」って仰いますけど、そんなのムリでしょ。「アナタの商品は素晴らしいからぜひ仕入れたい」っていう誘いに対して、事業者がそれを拒絶できるわけがない。だって、彼らはいつかは成功することを夢みて不遇時代を生きてきたんだから。

で、この時点で、
マニア層とメーカー側の意識の乖離がはじまるわけです。ほとんどの事業者の目標はある一定規模への到達であり、売上げの拡大なんですよ。「売上げ度外視でマニア受けするコアな商品を作り続けることが目標です!なんて事業者はいない。市場に存在するほとんどのプレイヤーが成功を夢みて日々頑張ってるんです。で、成功というのは何なのか?わかりやすくいうと

「自宅のガレージにベンツやレクサスの一番高い奴を入れ、バイク10台くらい並べて、夜はどこかの寿司屋で握ってもらい、メイドとプール付きの豪邸に住んで、泡風呂に入って白くてイヤらしいバスローブ着てスネ毛を露出させながら、プレイメイトみたいな美女とワイン片手にホームシアターの大画面で深夜アニメ見てからパフパフする。」

ってことですよ。ミもフタもないけど、まずは誰もがそんな贅沢を夢みる。贅沢三昧の末に
「金を稼ぐって成功とはちょっと違うんじゃないかな・・」と気づくことになるわけですが、とりあえずはまずは「エロと金」なんですよ。

メーカーは一部のマニア層のために慈善事業をしているわけではありません。量産するには効率化しなきゃならないし、販売数を増やそうとすれば、繊細で儚いものを作るわけにもいかない。結局、ブランドが一定規模になり、マスマーケットで生きていくことになれば、そこから生まれ出るものは大量生産品のルールから逃れられなくなるようにできているんです。

マニア達は、その流れを必死に止め、自分たちの求める商品を作り続けるようメーカーに求めるわけですが、メーカーはメジャーになればなるほど、マニア層より一般顧客を見るようになる。それを感じ取った古参のマニア層は、自分の支持してきた大切なものが変貌し、
「当初の理想を失ってしまった」と感じる。そして、そこからマニア達によるメーカーの否定と批判がはじまっていくことになるんです。

そもそもハーレーがマニア層に売りたいのなら、あんな立派な店舗いりませんよ。ハーレーが営業上ターゲットにしているのは
「ハーレーのビックツインのプライスがポンと出せる顧客層」なんです。そこには、「新型ハーレーに文句ばっかり言ってる貧乏マニア層」なんて入ってない。メーカーが古参の方を向いてないから、一部の古参ハーレー乗りの見捨てられ感もわかるし、古き良き旧車の世界に引きこもるのも理解できる。「現行ハーレーはハーレーなんて言えねぇ!」ってぼやきもしょうがないかな~という気持ちもある。

え?なんでハーレーマニアじゃないのにそんなこと理解できるのかって?そりゃわかりますよ。私の性分は本来ガチのマニア層なんですよ。アニオタでバイクと美少女ガレージキット製作が趣味なんですよ?こんな奴が
これまで一般人として生きてきてるワケがない。私は今こうやってハーレーのことをブログにしながら、ハーレー世界をいろいろと分析させてもらってるんですが、これって実は自分が別のカテゴリで体験したことをそのままハーレーに当て嵌めてるだけなんです。

私自身、数多の散財経験の中で、無名ブランドからメジャーになっていったブランドの初期作品を抱え込み、
「このブランドは完全に堕落した!」と数々のブランドの凋落に怒りの毒を吐いてきました。私の服の好みって横溝正史の金田一耕助シリーズに出てくる昔の駐在さんみたいなのが理想。だから、革靴も革鞄も機械式時計も好き。

しかし、アパレルブランドの堕落は酷く、一部は中国生産の手抜き生地で語るに落ちたし、革製品についても15年前くらいから革質の凋落と値上げぶりは著しい。機械式時計なんて2000年初期の頃に比べムーブメントの仕上げの質はガタ落ちなのに価格は数倍。批判文化が確立しておらず、メーカーの圧力で提灯記事が書ける業界ほどこれが酷い。ここまでブランドに裏切られ続ければ、ブランドなんぞ見捨ててマイナーな良いものに走りますよ。そんな世界に比べれば、評価がそれなりにしっかりしてて、乗り手の命がかかってる関係で騙しがきかないバイク業界は全然マシです。

魔改造3
(現行エンジンのフィーリングを旧型エンジンに寄せるなんてのは、まさに進化の逆行であり、ある意味「魔改造」です。インジェクション抜いてキャブをブッ差すなんてまさにこれ。この無理筋な価値観がハーレー世界には横行してます。フィギュアの魔改造は変態のたしなみですが、バイクの魔改造は止めた方が良いんじゃないかなぁ・・)

このようにあまたのブランドの堕落と凋落を目の当たりにし、怒りに満ち満ちてるはずの私が、なぜ今のような芯のないクラゲみたいな人格になってしまったかというと、ある日ふと
「自分が勘違いしていたことに気づいた」からなんです。

マニアって売れない不遇時代にメーカーを支えてきた自負があるから、メーカーに対して自分が凄い発信力を持ってて、
「自分が声を上げればメーカーが答えてくれる」などと、心のどこかで期待してるんですよ。俺はこのブランドを初期から支えた恩人なんだ!って自負がある。そのメーカーに対する愛情と知識で新規ユーザーからも一目おかれますから、ますます肩に力が入っていくんです。

でもそれは虚像であり間違いなんですねぇ・・。だってメーカーはマニア層の提言なんか全然聞いてないんですから・・。

だって考えてみてくださいよ。マニア層って超少数派だからマニアって呼ばれてるんです。そして少数派ってのはマーケットにおいては
「ものっ凄い弱者」なんです。しかも口だけは達者で、豊富な知識で問題点をすぐ見破るからこんなやっかいな顧客層はいない。

ショベル愛好家を見てればわかると思いますが、マニアな人達は自分の求める部分が突出してさえいれば、それ以外の諸々の苦労を全て許しちゃう変態です。しかし、一般顧客や販売店はそんないい加減さは許さない。だから、浮世離れした
「はかなく美しい味わい」より、商品としての使命をまっとうできるという当たり前のことが優先されていく。バイクでいうと、走る、曲がる、止まるが普通にできて、いろんなシュチュエーションで安全に走れることです。これって、これまでのハーレーの進化そのものですよね。

つまり消費財は量産数が増えれば増えるほどマニアの求める過度の趣味性とは相容れなくなるんです。ハーレーって前モデルのTC96ですら、駄目なところが沢山あってそれが味なバイクでしたが、昔のショベルなんかはそれよりもっともっとダメだったから、もっともっと味が濃かった。

私も変態バイクは好きですし、また、メーカーにはできるだけエポックメイキングで個性的なバイクを作って欲しいと思う。でも、広い市場に商品として一定数を供給することを前提とすれば、盛り込める趣味性や変態度には自ずと限界があるし、安全性や安定性を重視するのは当たり前だとも思う。だってメーカーが守るべきはライダーの命なんだから。

昔の自分はそういう事情を認めることなく、理解することを拒んで、メーカーが作るものに対して怒ってばかりいた。でも私の主張は、
「そのメーカーやメーカーの商品が自分の思うとおりのものでないからイヤだ」とダダをこねてるも同然だった。いや、声を上げるのは大事ですし自由ですよ。でも、それが通らなかったからといって義憤に燃えてもどうしようもないんです。人もメーカーも変わっていくし、メーカーにはメーカーの事情がある。変化は決して止められない。「それを認めず頑張るのは単なる自分のエゴでありルサンチマン(嫉妬)である。」とある日気づいて、私はクラゲになったんですね。要は怒るのではなく、ため息をついて黙って受け入れるようになったってわけです。

だって、私に自由があるように、メーカーにも経営の自由がある。それを自分が受け入れられないからといって、その虚しさや怒りを現行品や新規ユーザーにぶつけてもそれは
「マニアのいじけた遠吠え」に過ぎないんですよ。人を傷つけ、敵を作り、変人扱いされるだけです。

マニア層というのは悲しいかなメインプレイヤーじゃないんです。メインプレイヤーは常に一般消費者であって、マニアは商業ベースで利益だそうと思ったら真っ先に切り捨て、遠ざけなければならない顧客層なんです。にもかかわらずマニアの一部は
「自分はコアなメインプレイヤーである」と勘違いしてる。悲しいですね。

マニアはいろんなものにこだわり入れ込むけど、
「確実に置き去りにされるという宿命」を背負ってるんですよ。それがある時期ハッキリとわかってしまったから、私は自分がこだわり愛したものに切り捨てられることを受け入れた。バイク乗りってのはもともとマイノリティなんで、そういう境遇には慣れていますし、耐性があるんです。

いつか切り捨てられていくことを前提としてるから、どのブランドにも入れ込まないし、別れを受け入れられるんですよね。

いろんな紆余曲折を経て、私はいつしか変化をただ見守るという「観測者」になっていました。私の「ささやかなこだわり」なんぞ、広大な消費社会の中では、下水の中のリケッチアのようなものにすぎない。一度そういう目線になってみると、「それまでのこだわりと怒りはなんだったんだろう?」っていうほど、サバサバした気分になったんです。同じマニアックな目線でも、「ただ否定するだけではなく、メーカー側の裏事情もネチネチと考える」ようになった気もする。自分の無力さを自覚して、目線が少しだけ広がったんですよね。

で、自分の主観から一定の距離を取って、冷静にプラスとマイナスを比較していくと、バイクのモデルチェンジはやっぱりプラスの方が多いんですよ。ただプラスの部分が私の性癖に刺さるかどうかは別問題ってだけ。私は徹底した主観主義でインプレを書かせて頂いてますけど、それはこのブログが私の言いたいことを書き散らす産業廃棄物置き場だからってことと、客観的なインプレよりも主観的なインプレの方が影響力が低いからです。要は主観なんて箸にも棒にもかからないんですね。

結局のところ、私は回り回って
「好きか嫌いかのみで評価する」という一般消費者みたいなところに落ち着いてしまいました。それは過去の散財の過程で多くのメーカーに見捨てられ、置き去りにされてきた私が最終的に辿り着いた境地なわけですが、「それが幸せなことなのかどうか?」ってのは今もって私にもよくわからないんです。