ハーレー雑誌などを見てみると、「ハーレーは特別なバイクだ!」という方がいらっしゃいますよね。私自身ハーレーは特別なバイクか?と言われると「うん、確かにそうですね。」と頷きはしますが、「何が特別なの?」っていわれるとなかなか答えられない。

なぜかっていうと、私がハーレーに抱いてる特別な感情って、限りなく主観的なモノだからです。主観抜きでダイナを語ろうとすると、あんまり良いところがないような気がするんですよね。良いところって抽象的なとこばかりで、考えれば考えるほど細かい文句ばっかり出てくる(笑)。

どんなに技術的なインプレしても、私がダイナに感じてるものって、なかなか伝わらないと思うし、ハーレー嫌だっていう人に無理に勧めても、「乗ってみたらこんなに良いバイクだったのか!!」って感動するようなバイクでもないと思うんですよ。

私みたいに一度スピードバカになった人間が、正反対のハーレーを選ぶのって、紆余曲折の特殊事情があるんです。だから「バイクは速いからサイコー!」って速さを目一杯楽しんでる人にハーレーが刺さるわけないし、ドン亀扱いされるのもしょうがないと感じてます。だってドン亀なんだもん。

でもそんなドン亀に私はもう11年乗ってます。私がこれまで乗ってきたバイクと比較しても所有期間は一台だけダントツ。それだけでも特別なバイクといえなくもない。

今回はそんな私とダイナの関係についてちょっとばかし書いてみようと思います。

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(私とダイナの関係を語ろうとすると、なかなかにややこしい。私は今でもハーレーフリークじゃないし、もともとハーレーなんて大っ嫌いでしたからね。)

私は1970年代の生まれですが、私たちの世代は若いときからバイクブームの世情に煽られ、峠攻めとか最高速とかの熱に浮かされてました。

この前「アマリングという名の呪い」っていうブログで、アマリングを消すという価値観に意味などないって書きましたし、ネット上では多くの人も同意見のようです。(どーせバイク乗りは人の言うことなんて聞きませんので、書いても書かなくても一緒なんですけどね。)

一方、レプリカブームの頃は業界が開発費を投下した高性能バイクを毎年のようにドンスカ出してきて、「ヒザスリなんて危ないからやめようよ」って問題提起をする良識派はほぼいませんでした。「とにかくバイク乗りはヒザ擦らなきゃダメ」「転倒上等」みたいな風潮が蔓延してたわけです。

私も免許とってすぐその価値観に染まり、ビギナーの域を抜け出せてないのに、とりあえずヒザだけ擦ろうとしてました。なにがなんでもヒザを擦りたい。でも、フツーに考えて、ロクに乗れてないのにヒザ擦れることなんてないんですよ。でも、理屈より価値観の方が先に来ちゃってるからどうしようもない。

タイヤにロクに荷重かけられてないのに、ムリヒザ出してカッコだけのハングオフしてるからグリップ抜けてずっこける。周りから見てたらその頃の私のライディングなんて危なっかしくてしょうがなかったでしょう。「ガス漏れの部屋で、タバコ吸おうとして大爆発する王道ネタ」みたいなもんですよね。

で、七転八倒して、体削ってバイク壊して、必死にバイトして修理して、ようやくヒザ擦れるようになって「ヒザ擦れました~」って、ただそれだけ。ヒザ擦って世界が変わるとかそんなことまったくありませんでした。

必死にお受験して、一番楽しい時代を机に突っ伏して過ごして、いい大学入ってみたら「特に楽しいことなんて待ってなかった」ってのと同じです。そこには「いい企業に就職せよ!」っていうセカンドミッションが待っていただけ。で、みんな頑張ったあげく、私の卒業年にバブルが大ハジケして全てが無駄になったんですよ。笑っちゃいますよね。みんな就職決まらなくて学生ラウンジがお通夜状態でしたが、世の中の常識を素直に聞いて歩んできた結果がコレですよ。

今になって思えば、若い頃の私は、ライディングでも、生き方でも社会の価値観に振り回されてただけなんです。

でも、そんなドン底人生の私にも人生の転機が訪れて、その時に「今までやってきたこと延々続けてても先がないよな・・」ってふと思ったんです。

不思議ですよね。フルバンクしたり、最高速出したりすれば、世界が変わると思ってたんですが、全然そんなことなくて、自分が「そんなのおかしいんじゃないか?」と気づいた瞬間ようやく「世界が変わった」ような気分になったんです。

でも実際は気づくだけじゃダメだった。それまでの私にとって「バイクは飛ばしてこそ楽しい」もので、それが体に染みついてる。「このままじゃダメだな・・」と考えたはいいんですけど、そこで行き詰まっちゃったんです。

だって、どんなバイクに乗っても、誘惑に負けてアクセル開けちゃうし、バイクも律儀にそれに答えてくれるから、頭ではわかっていてもスピードの世界から抜けられない。どんなバイク選んでも、そのバイクなりの一番速いところで走っちゃうから、公道で速すぎることは何ら変わりないんです。要はアクセル開ける以外のバイクの楽しみ方が全然わかんなかったんですね。

「変わらなきゃっていってても、俺、全然変われてない・・まわりもみんなバイク降りちゃったし・・もう潮時かな・・・」って最後は遠い目になってました。

スピードという階段ひたすら登ったら、素晴らしい景色が広がってるハズだったのに、行けども行けどもただの荒れ地で、何したらいいのかわかんなくなった感じですね。

そんな迷い道のドンツキでバイクへのモチベーションが徐々に下がり、なんとなく息苦しくなってきたんです。そんなとき、「バイク人生の最後に大嫌いだったハーレーでも乗っとくか・・」ってふと思ったんですよね。で、ふらっと立ち寄ったショップで買ったのが、このダイナだったんです。

ハーレーに興味もなかったんで、予備知識ゼロ。選んだ理由も一番スタンダードっぽく見えたし、店長さんが飽きが来ないですよって勧めてくれたんで、「じゃあオススメのそれ買います」って、ショップに立ち寄ったその日に決めちゃったんですよ。

そんな気分に任せたなんの盛り上がりもないバイク購入だったんですけど、それに反して納車されてからの衝撃とドタバタは凄かった。ダイナって排気量1600ccもあるから、さすがに「開ければ速いだろ?」と思うじゃないですか。でも、全然速くない。しかも、速度がある一定領域に達すると、とたんに乗り手に反旗を翻してくるという糞っぷり。

高速飛ばせば「やめろバカ」って言わんばかりに風あてて、大地の怒りのような振動で圧迫してくるし、高速コーナーでは「お前の好き勝手にさせるか」とばかりにサスがへタレて抵抗する。バンクさせても「寝かせすぎ。調子こくのはここまでだ。」って感じでステップを地面にゴリゴリ押し当ててやる気を削いでくるんです。

ダイナは私がバイク人生で初めて出会った「自分の言うことを聞かないバイクでした。これまでのバイクは性能限界という上限はあれども、私に決して逆らわなかったんですよ。みんな従順だった。だから大排気量車に乗ると私はいつも自分の自制心を試されていたんです。

でもダイナは違いました。200万円以上の金むしり取っておいて、私の言うことをまったく聞かない。それどころか「お前は間違ってる!」って面と向かって喧嘩売ってくるんです。

「お前みたいなバカはこういう風に走れ!わかったかクソ野郎!」

ってバイクが正々堂々と私のライディングに物申してくるんですよ。バカ殿の前に仁王立ちして頑張る家老職みたいに絶対に譲らない。「なにコレ!!このバイクとんでもねぇぞ!!」って心の底から思いましたよ。

結局のところダイナは重くて遅いんじゃなかった。一定以上の速さをバイクの意志で明確に拒絶してたんです。速く走ろうとするとバイクがハッキリと「嫌だ!」って抵抗する。確信犯的に「走らない」んですね。

その異常なまでの頑なさは、これまで私が乗ってきたバイク達には決してなかったものでした。私が「こんの糞バイク!」と罵しっても、多くのライダーに「鈍足!」「耕運機!!」とバカにされようとも、自らの行く道を決して曲げない。そんな強さがこのバイクにはあったんですね。

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(結局ハーレーってのは、スピードと正反対にある、もうひとつのバイクの真実なんです。大荷物を詰んで旅に出られる汎用性、何十年も壊れることなく長距離を走破する耐久性、ユーザーが自分で維持できるレベルのシンプルさを実現しようとすると、バイクは必然こうなる。ハーレーの凄いところは、その枠を超えることをバイクが明確に拒むところ。)

ハーレーって性能的には全然特別じゃないんですよ。ただ、他のバイクが決して持ってない「スピードバカの乗り手にNO!といえる信念と頑固さ」を持ってたんです。

スピードを求める人には、ダイナはケツをムチでバシバシしばいても、ニンジンを鼻先にぶら下げても、並足でしか走らない駄馬以外の何ものでもない。だから合わない人には徹底的に合わないんです。でも、スピードに疲れた私には凄くよく効く薬だった。だから私は11年間、このお薬を飲み続けてる。

ゆっくり走ってると、この雑なパーツの集合体のどこからこんな気持ちよさが出てくるの?とつぶやきが漏れるほど気持ちいい。まるで温泉つかってるようにダルダルで、私の理解を超えた感覚世界がそこに確かに存在してました。いつもの山道をゆったりまったり流してると、これまで自分を縛ってきた常識が全て霧散し、いろんなものから解放されて、楽になるような気がしたんですね。

ダイナに乗るようになってから、私につきまとっていた息苦しさは消えました。

ダイナの前ではヒザ擦りも最高速も何の意味もない。バイクとしては上限に近い排気量を持つこのバイクは、そんなカッコいいことはまったくできないんです。ダイナには目指すべき目標がなく、乗り手と共にただ真っ直ぐ地平の彼方に向けて走ることだけしかない。東アジアの新興国で3ケツして夕日に向かって走るカブとダイナは、とても良く似てると思う。排気量は両極端ですけどね。

ダイナという速く走ることを許さないバイクに乗って、私はようやくスピードから解放されて、第二のバイク人生を歩みはじめることができたわけです。だから、私にとってダイナの価値は爆音でも三拍子でも、ブランドでも絆でもないんです。このバイクの凄さは、バイクにスピードは絶対的な価値じゃないという信念を掲げて、これまで積み上げてきた私の走り方を土台から否定したことです。

「なに変な考えに凝り固まって肩に力入れてんだよ?バカだろ??バイクにややこしい常識なんてのはいらねーだろ?

って笑いながら、嫌がる私の首を両側から無理矢理はさんで、右から左にゴキッと目線を変えてくれたんですね。

もうね。それ以降楽になっちゃって、コマの隅で見切れてるモブキャラでよくなった。昔はバイク跨がる度に根性入れて目をキリってさせてましたが、今は走りながらヨダレ垂らして白痴のようにニヤけてますからね。この変わりようがヤバい。

モブが主人公になる必要なんかそもそもなかったんです。今の私は自分を縛ろうとする全ての有象無象から離れていたいんですよ。だから、私はうちのダイナをローライダーっていわない。ローライダーってペットネーム、いろんなものを背負っていて重いでしょ?

ダイナは私にハイオク以外は何も求めてこないし、私も何も求めない。所詮、蓋を開ければ、どっちも出来損ないのポンコツなんですから。でもそれを自覚して、笑って受け入れるまでには、もの凄く時間がかかるんです。

ポンコツはポンコツらしく、無理せず気楽に生きていきゃいいんじゃないかと。ダイナは粗忽者ですが、ポンコツになったオッサンにとても優しいバイクです。上から介護してくれるんじゃなく、自分と常に対等で同じレベルで同じ目線だから、乗ってると楽でしょうがない。そんなバイクだから、他のバイクがどんどん入れ替わっていっても、ずっとメインバイクの地位にどっかり座って動かないんですよ。

結論としては、・・まぁ変なバイクです(笑)