コロナウイルスが全世界で猛威をふるい、本日時点で死者数が16万人という大厄災になっています。ワクチンもなく、かかってしまえば医療体制の是非にかかわらず、一定確率で死亡のリスクがある。喫煙や年齢で肺がへたってきてると、死亡リスクは飛躍的に高まっていくわけで、高齢者にとっては死神の鎌のような非道なウイルスです。最悪の場合全世界で6000万人以上の死亡者が出るとの予測もあるようですが、未知のウイルスですので、それもやむを得ないのではないかと感じています。

政府の発表では緊急事態宣言の後も、出勤者の割合は目標の7割減に届かず、5割減にとどまってるらしいですが、これは中小企業の経営者が非常にクレバーだからそうなっているんです。社会的な役割を担ってる中小業者は、仕事が禁止されない限り営業を続けなきゃならないし、そうでなくても家族や従業員の生活を抱えている。自営業者は財務省や経済産業省の役人のように、自分で肉を取らずともエサが落ちてくる飼い犬じゃないんです。

私のところも現状、従業員の半分を交代で自宅待機させています。石川県は特定警戒県に指定され全国でもヤバい地域となってますが、感染者の8割強が金沢市周辺に集中しており、私の住む地域は全国平均を下回ってます。今のところ仕事もないわけじゃないので、「何で半分にするの?どうして?ビビってんじゃねーよ!」ってツッコむ取引先もおりますが、かかっているけど「世間体を恐れて検査受けてないステルス感染者が絶対いるはず」と睨んでるんで、余計不気味で怖いんです。

政府はコロナを押さえ込むために「人との接触を7~8割減らせ!」っていうけど、この状況下でも仕事を続けなければならない立場からしてみれば、「そんだけ休ませたらコロナに対する安全は確保できても、仕事上の安全が確保できないだろ!!」ってことになる。

しかし、この状況下では、7割は無理でも、通常勤務人員を5割に減らすことは「経営上のリスクヘッジ」の点からも理にかなってるんです。シフトを変えず通常どおり全員出社していた場合、従業員のうち一人でもPCR検査で陽性が出たら、「全員が濃厚接触者」になってしまう。保健所の指示で従業員全員が自宅待機を命じられ、職場を2週間以上完全閉鎖せざるを得なくなります。そうなると事業が完全にストップするので、取引先に迷惑をかけないために「感染してそうな従業員が出ても隠し通す」という中国共産党のような「恐ろしい選択をしてしまう」ことになりかねない。

しかし、半分ずつの2チーム勤務にすれば、ヤバそうな症状で休む従業員が出ても、急ぎ職場の消毒措置をして、新規の仕事を止め、濃厚接触していない「もう一方のチーム」をフル稼働させて、なんとか受けてる仕事を処理してから閉鎖ができるんで、取引先に迷惑をかけない対応がとれる。チームを2つに分けることで、もしものときの備えができるわけですね。

これをさらに進めて出勤者を7割減らそうとすれば、シフトを3分割することになりますが、従業員が少ない中小企業は仕事のクォリティ維持とリスクヘッジの落とし所が「なんとか5割」だと思うんですよ。それでギリギリ。それ以上は「法令で全ての取引を禁止」しないと実現は難しいんじゃないでしょうか?だって、仕事がきてる以上こなさなきゃならないわけですから。

コロナウイルス
(コロナにかからないバイク達から見ると、今の世間の右往左往はこう見えるでしょう。無謀運転は平気なのにコロナは怖いの?といわれると返す言葉がない。これまで麻痺していた自分の感覚を見返すいい機会かもしれませんね。)

今、世界はコロナウイルスでヒステリックになっていますが、それはコロナウイルスが有象無象の区別なく、誰にでも平等に死をまき散らし、蹂躙していくからでしょう。

世界では交通事故が原因で年間100万人以上が死亡していますが、コロナウイルスはそれに比べたら死者はまだまだ少ない。しかし、交通事故による死は車やバイクに乗らなければ回避できるし、死んでも乗り手だけで、それが連鎖することはない。結果も極めて不平等で、衝突事故で原付のオジさんはあっさり死んでも、戦車のようなリムジンに乗っている資産家が死ぬことは滅多にない。

しかし、コロナウイルスは違う。有名人であろうが一般人であろうが金持ちであろうが、貧乏人であろうがまったく関係なく飲み込み死を連鎖させていく。どんな人間もウイルスにとってはタダの宿主にすぎないわけです。

資本主義社会の中で、医療は決して平等ではなく、治療費を潤沢に払える人間の方が総じて良い治療を受けられ、助かる確率も上がるわけですが、コロナウイルスはその常識がまったく通用しない。だってワクチンがないんだから。しかも感染面のみでいうと、貧乏人が苦しむどころか金持ってて高級クラブで豪遊した人たちが片っ端から地獄にたたき落とされているという下剋上のような現象が生じているわけです。

たっぷり金を貯め込んで最高の治療を望んでも、ベッドに空きがなく、医療現場に余裕がなければ、どんな資産家でも自宅で臨終の時を待つしかない。生命保険をたっぷり掛けて不慮の大病に備えていた人たちも、このコロナの前ではお手上げ。死ぬほど苦しんでも入院できなければ入院保険は下りませんし、請求したって保険会社に従業員がいないんだから金なんて出てこない。保険による焼け太りすら許されず、「何のために金をベットしてきたんじゃぁああああ!!」と怨嗟の叫びを上げてもむなしい。世が世なら盛大にとりおこなわれる葬式も自粛。医療崩壊は、「無秩序な死」をこの世の中に蔓延させ、世界を「原始に還す」ことになるわけです。

また、日常生活においても同様、資産をどんなに持っていても、食料品店とコンビニ以外全部閉まってしまい、貯めたお金をモノやサービスと交換できなくなった時点で、お札は日本銀行が発行したタダの紙切れになる。今の状態は金の有る無しにかかわらず、ある程度平等な世界になっているんです。そういう時って大変だけれども、その状態にそれなりに納得できると感じられるのは私だけでしょうか。

結局この世の価値観なんてのはイレギュラーな事態になれば全て崩壊していくわけで、このコロナウイルスはそれをまざまざと見せつけてくれてます。被害軽減という安全措置を持たないバイクと医学的な治癒措置のないコロナウイルスは「万が一の時は有象無象の区別なく平等なダメージを」という意味では共通してる。

一度バイクに跨がれば自分の命を守るのはライディングの経験と技術のみ。バイクに乗るということは、ただ一人の生身の個人として「スピードというリスクに向き合う」ことです。そして今、世界はコロナウイルスという脅威を前にして、資産や社会的地位という資本主義の作った衣を根こそぎ剥ぎ取られ、テクニカルなワインディングを駆け抜けるバイク乗りと同様、むき出しの真実と相対することになってる。

じゃあ、その真実ってなんなのか?

それは、結局この世の全てが「運と偶然」であるってことです。この世には様々な啓発本がありますが、この世に真理が2つも3つもあるはずがない。過去の成功者の経営論も資本主義というルールの上で紡がれ、真実の上に薄く塗られた皮膜であって、資本主義という土台が揺らげば、剥がれた壁紙の背後から真実の価値観がちゃんと出てくるようになっている。

私自身はバイク乗りなんで、ある日突然理由もなく「全てが無になる」ところをさんざん見てきましたし、自分がいつかそうなるということを受け入れています。志村けんが死んだときも、人はコロナのせいだと言いましたが、地球上で多くの動物を絶滅させながら人が増え続けるように、コロナだって人を殺して繁殖する権利がある。

20200309

だから彼が死んだのは「運以外の何ものでもない」んです。この世は平等なルーレットで、神に祈ったって金を積んだって出目は一切変わりません。今の政府の経済政策を非難してる人もいますが、私から見ると所詮は「金がいくら誰に配られるか」という小さな問題でしかない。運と偶然により理不尽に襲ってくる命の危機に対して、国から貰う金が人と比べて不公平だ何だと愚痴っているうちは、まだまだ余裕があるなと・・。

ツッコんでくる大型トラックに目の前にして、乗っているバイクが100万円なのか50万円なのか、その後の修理費がどうなるのか?なんて正直どうでもいいことです。要は事故に至るまでの数秒間、命を守るためにどう対処するかが一番大事なわけで、そこに集中するべきなんです。(ちゃんと対処しても死ぬときゃ死にますが。)

バイクと同じで、圧倒的な危機の前では、第三者からの施しなんて意味がなく、自分の能力や経験だけが頼りになる。死ぬときまで、自分自身の責任で正確な認知、判断、操作を繰り返し、生きる努力を続けるくらいしかやれることはない。

大自然から遣わされたコロナウイルスにとって、人が作った細かい価値観や倫理感はまったく関係ない。誰を血祭りに上げるかはウイルス次第。人が作ったシステムによる不平等を剥ぎ取った後の、清々しくも当たり前の普遍的リアルがそこにあるわけです。

このコロナウイルスが去った後、人の価値観は大きく変わってると思います。平等な死が身近になることによって、私のようなオロカな人間の行き過ぎた欲望は消え去る可能性がある。コロナウイルスが沈静化した後、世界は壊れた経済の再建をはじめるはずですが、余裕がないと消費が生まれないハイブランド商品は壊滅的な打撃を受けることは間違いない。

でもそんなのは私にとっては珍しくもなんともない。これまで予測のつかない理不尽な握りゴケや滑りゴケで、「命よりも大切だ」と思っていた虎の子のバイクを「ある日突然失ってしまう」って悲劇を何度も経験してきました。コロナによる経済崩壊はそれのデカいやつにすぎない。

もともと二輪の世界に安定などない。そしてこの世に永遠の安定なんてものもない。全てがある日パーッとなくなる。私の親友も、ある日突然この世から消え去りました。

「花に嵐の例えもあるさ さよならだけが人生だ」

それがバイク乗りの当たり前なんです。

今回の厄災で世界はいろんなものを失うと思います。私自身もこの世からいなくなるかも。しかし、それは過去にバイク事故で死んだ私の友人に訪れたものが私に訪れるだけで、そこに何の違いもないという感覚がありますし、厄災によって平和の上に築かれた欺瞞や虚構で「見えなくなっていたいろんなもの」が見えるようになるんじゃないかとも思います。

そして、それは運と偶然の世界で「感覚だけを頼りに生き延びているバイク乗りが見ているもの」に似てるのではないか?と考えたりしています。