今回は私の独断と偏見に満ちたハーレー論の第1回目として、「ハーレーは糞バイクなのか?」という禁断のテーマについて考察します。

(最初に注意書きです。)
ハーレーファンはやきもきするかもしれませんが、ハーレー乗りだからといってハーレーに有利な結論にならないのが私のブログなんで、そこら辺は了解の上ご覧下さい。

また、このブログは個人ブログであり、書いてあるのは私の完全な主観です。多くの方は全く共感できないかもしれませんが、それはもうどうしようもないと諦めて下さい。
ダイナ鉛筆+1
(字面だけじゃブログとして画面が保たないので、ダイナ嬢のイラストを。これは初期の下描き。ちょっとエッチくさいです。)

(ここから本文です。)
ハーレーはいろんなところで糞バイクといわれていますが、そもそも「評価ってのは視点によって結論が180度変わるもの。」立ち位置を反対側に設定すれば、正義はその実態を変えぬまま悪と呼ばれ、素晴らしいバイクは素晴らしいバイクのまま糞バイクになるんです。

ハーレーは、日本市場における既存の価値観をアメリカの価値観で強引に上書きし、日本のバイク市場において大きなパラダイムシフトを成し遂げたバイクだと私は評価しています。

最初に結論を申し上げておくと、ハーレーはカタログスペックと価格のみを考えれば

糞バイクの批判は逃れません。

数値主義の視点から見ると、エンジンパワーは低く、車重はバカみたいに重く、バンク角はなく、全てが鉄ッチンで軽量化の努力は国産車と比較すればないに等しく、価格も高い。メカ的に評価できるところってウィンカーが自動的にキャンセルされるとか、その程度で、擁護の余地が微塵もない。

私が乗るダイナ・ローライダーと同じ価格帯で、国産バイクの何が買えちゃうのか?というと今をときめくCBR1000RRが「チタンコンロッド」「セミカムギアトレイン」「多点式ピストンジェット」「DLCコーティング・フィンガーフォロワー式ロッカーアーム」「アルミプレススイングアーム」「1万4500回転での最高出力」など、生産技術の粋を尽くした最新装備満載で217馬力の208万円。

カワサキのオンリーワンエンジン、パワーを解放すれば300馬力も余裕のスーパーチャージドモデルのH2が244万円。これらに比べて私の乗るダイナは多分50馬力くらいでメカニカル的には特段なんのウリもない。勝っているのは排気量だけ。そして価格は201万円。

これを糞といわずしてなんというのか(笑)

古来よりスピードという快楽を追求してきたのがバイクですし、その流れは今も継続している。軽量ハイパワーなバイクは車より安価にとんでもない加速力を体験できる。そして、この領域では車に対してメチャクチャお買い得です。リッター200馬力で200万円って、どー考えてもおかしい。車だったら3倍~5倍の値付けになることは間違いありません

逆にハーレーなんて車以下の性能で、価格は車より高いわけで、スピードを求めるライダー達から「なにやってんの?アホちゃう??糞すぎるだろ!!」という意見が出るのも当然なんです。

この世の中の大多数の人達は、形のないものや根拠のないものに金を突っ込めない。だからスペックや最先端技術ってのが重要になるし、数値性能は確実に優劣が出てくるから、比較すればどのバイクが優れているかが一目瞭然になる。消費行動ってのは、スペックであれスペックでないものであれ、価格に見合ってると買い手に認識されないと、財布から金を抜くことはできないんです。

ダイナ鉛筆2+1
(鉛筆下描き完成。ダイナを入れてみました。やっぱバイクがあった方が良いですね。)

ハーレーのTCエンジンが17年間の長期にわたりモデルチェンジもなく売れ続けた理由は、「カタログスペックに依存していなかった」からです。

この間、他のバイクがどんだけモデルチェンジし、カタログスペックを盛りつけて、ハーレーに対する優位性を主張したとしても、ハーレーは痛くも痒くもなかった。ハーレーが提示していたのは「変わらない価値」であり「性能が低いのに楽しい」ことであり、「バイクを楽しむのに過度な高剛性シャーシもパワーも不要」ってところだったので、その価値観を守るためにはモデルチェンジという進化をしない方が都合が良かったんです。

でも、こういう価値は遙か昔から単気筒バイクや、スタンダード国産ツアラー、空冷ネイキッドバイクが提示し続けてきた価値観であって、今更珍しくもなく、ハーレーが新しく提示したものでもない。ではハーレーとそれまでの国産バイクを隔てているものは何なのか?

それまでの国産バイクはフィーリングに優れたものは多々あれど、カタログスペックが低いのと、枯れた技術で作られていることから高性能バイクやスーパースポーツより販売価格が安かったんです。だから、豪華装備満載のフラッグシップツアラーを除いては同排気量で比較すると「遅いバイクの方が速いバイクより相対的に価格は安かった」。そりゃ当たり前です。低性能なのに馬鹿高いバイクなんて誰も買わないですから。販売的にもスペック的にも絶対性能が高いバイクが高価でイキれる構図だったんです。

ハーレーのとんでもないところは、そのような不文律のある日本市場で、糞のようなカタログスペックにもかかわらず、国産ハイパワーバイクを大幅に上回るような高価格をつけ、それが「最高の価値であると顧客に胸を張って押しつけた」ことにあります。

まったり走る楽しさを速く走るということの上位価値に設定し、空冷の古くさいエンジンをぶら下げ、速いバイクよりハイプライスで売っちまうというとんでもないことをやらかした。アメリカ特有の傲慢さで、これまで国産バイクが互いに配慮し、暗黙の上で守ってきた一線をワークブーツでグリグリと踏みにじっちまったわけです。

今まで「価格的な正当性の絶対根拠」とされてきたハイテク装備や軽量ハイパワーの価値観を否定して、まったく別の視点を持ち出し「バイクにとってスピードは悪でしょ。だって死ぬでしょ。何で死ぬようなバイクを高い金出して買うの?どーせ高い金出して買うんなら安全で楽しいバイクでしょ。」と主張して、国産車のこれまでの価値観に正面から喧嘩を売ったんです。

なぜこの主張が受け入れられたか?細かなところは「ハーレー論のその2」以降で述べますが、ざっくり言うと、そこに「バイクとはこうあるべきという根本的な部分での正しさがあった」からだと私は考えてます。

「乗り手に対して危険のみを積み増していくようなスピード依存の技術革新が公道走行において本当に乗り手の利益になるのか?」というまっとうな問いかけを国産高性能バイクが乗り越えないと、どんなに高性能を追求したとしても、ゴミのように低スペックのハーレーが利益てんこ盛りで売れ続けるという忌々しい現状は変わらない。

このハーレーのバカ売れによってバイク業界を長年支配してきた「スピード&高性能=絶対的高価格」というイキりの構図は完全に崩壊したわけであります。

ハーレーは一番売れた最盛期には大型バイク市場で、シェアの半分以上をかっさらったわけですから、ここまでいくともはや個人の趣向ではなく、市場の原理が大きく変わったということになる。

これは東西ドイツにおいてベルリンの壁が壊れたくらい衝撃的なことだったと思います。なんせ、「ローテクの遅いバイクがハイテク最先端バイクを超える高値をつけても売れちゃう」っていうとんでもない実績ができてしまったわけですから。これで速いバイクと遅いバイクのヒエラルキーはもうぐちゃぐちゃ。

そんななか、個性があり味の深いバイク達がその存在感を一気に取り戻し、息を吹き返していったわけです。

独断と偏見のハーレー論その1-1+2
(下描きにペン入れして完成。下描きは下描きの味があるし、ペン入れ後はツヤのある華やかさがありますね。ちなみにバイクを擬人化したときに、なぜ皆が女性として描くのかわかりますか?バイクを男にしちゃうと、男に乗ってることになっちまうからです。ボーイズラブですよ!!ホモダッチですよ!!そんなのイヤすぎ!だから女性なんですねぇ。)

確かにハーレーはカタログスペック上は糞バイクです。しかし、数値を参考にしないのなら、実際に糞かどうか?なんてのは乗った人間の主観のみ。速いバイクは素晴らしいけれども乗り手にストレスとリスクを与え、転倒すれば大惨事に繋がる。それを理解していたハーレーは、巡航速度域の楽しさだけ、超高速でぶっ飛ばしている国産SSと互角以上に渡り合えるように作ってある。

逆に言うとそこ以外は全てダメなわけですが、そこしか良いところがないから、ほとんどのライダーはその速度域を使って走る。それが公道の速度域と見事にマッチしてるんで、乗り手はフツーに街中走っていると気持ちいい部分だけをずーーっと味わっていることになるんです。

だから、ハーレーはダメなところを下手に潰すと味が落ちるという変なバイクになってる。(10年間ハーレーをイジってきて、気持ちよく乗るにはチューニングにおいてもダメなところと良いところのメリハリを残さなきゃならないと私は考えるに至ってます。)

結果的にハーレーの提示した功利的で実用主義的価値感はとんでもない説得力をもって受け入れられました。遅いからこそ安全で、遅いからこそノンストレスで、遅いからこそ楽しい。この無茶な価値感を強引に押しつける傲慢さが「国産バイクとハーレーの一番の違いだった」と思います。通常、そのような傲慢さは信念と哲学と、そして歴史と文化に裏付けられた正当性がないと生まれないんですが、恐ろしいことにハーレーにはその全てがあった。今、国産バイクでこんなことができるのはカブとSRだけだと思う。

私自身、バイクに乗っていて感じるのは、公道では扱いきれないパワーなんてないも同然だってことです。

私は今ダイナとF6Bに乗ってますが、50馬力そこそこのダイナと100馬力超えてるF6Bを比較してパワーがあるF6Bの方が絶対的に素晴らしいのか?っていうとそんなこと全然ないんですよ。空冷Vツインには空冷Vツインの良さがあり、6気筒には6気筒の良さがある。パワーとかトルクとかの数値を取り出し、比べてどうのこうのいえるものではないんです。

突き詰めると公道で自分を運ぶ機械の評価基準なんて「好きか嫌いか?」「乗って気持ちいいか気持ちよくないか?」だけだった。基準はカタログではなく自分の内面であり、速さでもメカニズムでもなかった。人気車であろうが不人気車であろうが、中古であろうが新車であろうが何でも良かったんです。

ですから「バイク選びなんて単純なんだ!数値じゃねぇんだ!感覚勝負なんだ!!公道でメッチャ気持ちいいバイクが高額なのは当たり前だろ?」って堂々と胸を張ったハーレーが一人勝ちするのは必然でした。

それは偏差値優秀でスポーツ万能だけど寡黙な理工学部系の学生に対し、だらしなく、勉強できないけど、弁論能力に優れ、表現力とアートの才能に溢れる文学部系の学生が猛然と戦いを挑んだみたいなものでした。

人間が満足を得るには、理論よりも心の方が重要で、人は感性や心に訴えかけるものに実に弱いんですよ。私自身文学部出身だからそこら辺は凄く良くわかるんです。

これは決して私だけが感じていることではないはずです。だって市場は決して嘘をつかないし騙せない。間違ったものや軽薄なものが長期にわたって支持されることは決してないんです。ハーレーは売り上げは落ちてるけど、基本的な考え方は何ら間違っていないからブームが去って販売台数が減少しても、決してなくなったりはしないでしょう。(訳のわかんない爆音で社会的に排除されなければですが・・)

ハーレーは確かに糞バイクですが、提示する価値観は死から最も遠いところにある。必要十分とは何か?人が御しきれる限界はどこか?ということを常に考え続けていて、そのラインを決して超えてこない。多くのバイクが競争を続ける市場の中で、競争を否定し、人間理解を徹底させたバイクを成立させることは性能を研ぎ澄ませるよりもよっぽど難しい。



「いや、いろいろ書いているけど、単にオマエみたいな頭悪い運転下手の糞ライダーには糞バイクが似合ってたっていうだけじゃないの?」

っていわれると、まー実はその通りなんですよ(笑)。私は短絡思考で技術もないのにキレやすく、事故を繰り返しつつも反省のない自信過剰で楽天家の糞ライダーなんです。

そんな自分自身に行き詰まり、「俺みたいなバカがバイクに乗っちゃダメなんじゃね?もうバイクを降りようかなぁ・・」としょげかえっていた時に、「いやまだまだいけるって、スピード路線で行き詰まっても、糞バイクで糞っぷりを楽しむ文系路線があるゾ。お互い糞だと自覚してる者同士、仲良くいこうぜ。」ってささやいてくれたのがダイナだったわけです。

で、乗ったらホンットーに糞バイクでビビりましたね。でもなんか安心できたし、そこには得体の知れないスピリチュアルな深淵があったんです。

ハーレーの素晴らしいところは、私のような糞ライダーがバイク乗りとしてこの公道で生き続けていくために「一点の曇りもない確信的な思想に基づいて作られた糞バイク」を提供してくれたところです。

ハーレーの存在価値はそんな「愛すべき糞バイク」をハイプライスで堂々と自信を持って売っている、その馬鹿馬鹿しくもすがすがしいあり方。それにつきると思ってます。