ここ10年ほど「バイク人口減少」とか、「バイク離れ」とかいう題名の記事をよく見るようになりました。

私も記事が出る度に一通り読んでみてるんですが、どれも今ひとつピンときません。どちらかというとメーカー側に「安全で魅力的で安いバイクを作れ」とか、「排気量の制限を緩和しろ」とかいうことを求める内容になってるんですが、「たはーっ・・そんなことでバイク乗りが増えれば簡単だよなぁ・・」ってのが私の感想。

「メーカーが魅力的なバイクを作らにゃならん!」というのは、まぁ間違ってはいないわけですが、そんなことはバイクメーカーは百も承知で、現在でも頑張って作っていると思うんです。いちいちそんなことを言われると、メーカーとしては「じゃあ、安全でバカ売れする魅力的なバイクをお前が作ってみろや!」といいたくなるんじゃないでしょうか。

確かに遅いバイク作れば安全になるんでしょうが、それはビールからアルコールを抜くみたいなもので、乗り手から受け入れられず、販売台数は稼げないと私は考えています。

ハーレーだって、ノーマルでなんとも味のある調教に仕上がってるのに「その味を消してでも速くしたい」と大金をつぎ込む人が後を絶ちませんし、その気持ちもわからんではない。だから悲しいかなバイクからスピードという要素を取り去ることなどできないのです。乗り手が丸裸で、快適性、豪華さ、質感などが「車ほど重視されない」バイクにあって、公道で1000ccと250ccの価値の差はスピードとパワーと見栄えの優越感に他ならないのです。

イメージ 2
(いったん刺されば大怪我は避けられない。しかしそれから目を背けていても正しい結論には辿り着くことはできません。)

確かにメーカーが安全に対するアプローチを怠ってはいけないのは言うまでもありません。しかし、スピードの出るエンジン付きの二輪が危険なのはわかりきったことです。バイクという乗りものが開発されたときから、今に至るまでその点になんの変わりもない。安全だけで語るのならば、もしもの事故の際に乗り手を保護する機能がないバイクには「とうの昔から未来などない」のです。

だから、「バイクは危ない。」「いったん事故に遭えば、他の乗り物より重大なダメージを負うことは避けられない。」ということを受け入れた上での議論でなくては話は前に進まない。

私が「中免とってバイクに乗りたい」といったとき、私の両親は「そんなことは絶対に認めない!」と激怒しました。それは当然です。私の自宅の「向かいの家」「後ろの家」はいずれも長男がバイク事故で死んでいる。いとこもバイク事故で太ももの骨を折るという大怪我をし、大学生活を棒に振っていました。息子の命を心配する両親としては「バイクだけには決して乗らせない」という決意があったのでしょう。私も人の親になって当時の両親の気持ちがよくわかります。

でも両親がそれほどの止めたにもかかわらず私は今しれっとバイクに乗っている。当時私は激怒する親に対し「わかった・・バイクはやめるっす・・」と戦術的撤退を選択し、その後さっさと親元を離れ、アルバイトして免許を取得し、親に内緒でバイクを買っちまったわけです。

そこまでしてバイク乗りになった私ですら、息子をバイクの世界に誘うことはしない。それはなぜか?安易に誰かをこちらの世界に誘い、もし何かあったら生涯自分を責めることになるのがわかりきっているからです。

どうにもこうにも、私はこれまでのバイク人生の中で、いろんなものを失い、バイクの暗い部分を見過ぎてしまったようです。その結果、私は「バイク版スナフキン」ともいうべき存在に変化しました。スナフキンがムーミン谷にいられるのは「ムーミン達がお互いの心配をしないから」ということらしいですが、この世界にはムーミン谷などありません。
イメージ 3
(昔は何なのこの人?と思っていましたが、今はスナフキンの気持ちがそれなりにわかる。)

今の私にはバイク仲間はいませんし、基本的に誰かと走ることもない。バイク乗り同士の「絆」という言葉も、いつか破裂して自分を苦しめる爆弾にしか感じない。私は誰の心配もしたくないし、誰からも心配されたくない。だからスナフキンのように「一人でおさびし山をさすらう」という、孤独なバイク人生を送っているわけです。

このようにバイクに長年乗っている私ですら、自らの経験から息子にバイクは勧めません。遅いバイクに乗せれば安全なのか?そんなことない。250ccだって死ぬときゃ死にます。44マグナムでなく、空気銃でも使い方を誤れば人が死ぬのと同じです。

結局バイクは高リスクの投資商品のようなもの。ハイリターンですが、リスクも確実にある。そしてバイクの安全はスピードやパワーではなく、ひとえに「乗り手の心」にかかってます。人の心は他人の言葉や機械で決して制御することはできない。それ故に、バイクは人に勧められて乗るものではなく「自分の意思で乗ることを決断するべきもの」だと考えているわけです。

なおその選択は、リスクとその対処法を理解した上でのものでなければならないことは言うまでもありません。だから楽しいことだけを伝えるのではなく、リスクもしっかりと提示しなくてはならないはず。しかし、バイク業界はイメージの悪化を恐れ、そのリスクの提示をしてきませんでした。でも、事実はジワジワと広がり、もう「バイクは危ない」というイメージはこの世に定着してしまってます。

「それじゃ誰も積極的にバイクを勧められないってことになるじゃん!バイクは八方ふさがりじゃん!!オワコンじゃん!!」とおっしゃる方。そのとおり。バイクは本来オワコンです。ちなみに現在バイクが直面している環境は

①超少子高齢化による若年層の減少。
②安全性は公道を走る乗り物の中で最低。
③周囲のイメージ最悪。
④荷物は全く積めず、雨もしのげず利便性は車の足下にも及ばない。

という、字面で書くとまさにヘレンケラーを超えた四重苦。つまり実質終わってるわけです・・・でもねぇ。これって今に始まったことじゃないんですよ。

①番以外は私がバイクの免許を取った頃から同じ。当時は戦争での平均年間死亡者より、交通事故で亡くなる人の方が多くなり、「もはや国内で戦争しているに等しいじゃないか。これは交通戦争だ!」といわれるくらい状況は酷かった。だから、その戦犯であるバイク業界など、とっくに消滅していてもおかしくない。でもどっこいバイクはまだ生きてて、ちょっと前まで第2次バイクブームとまで言われていたわけです。

結局バイクに限っては、業界が壊滅しない方法を考えるより「あれだけの死者を出し、しかもデメリットだらけなのに、なぜまだ生き残ってるの?」っていう不思議から考えた方がいいと思います。

バイクが滅びない理由。それはバイクはデメリットを補って余りあるほど「メチャクチャ気持ちよく奥が深い乗り物」だから。

私は趣味のとても多い移り気な人間で、いろいろな散財を続けてきました。私が愛し、良心的だったものも、ブームになるとそのあり方が急激に変質していく。それにあきれ果て多くを見捨てた結果、現在ほぼ無趣味です。でもそんな中、バイクに乗ることだけはずっーと続いています。結局バイクはどの趣味に比べても持続性が高く、満足度が高く、奥が深い、麻薬的な魅力があったということなんでしょう。

そんな「危ないけどもメチャクチャ魅力的」なバイクの一番の問題は、それが「乗らないと伝わらない」ことだけ。だから私が提唱するバイク人口を増やす一番の方法は

「とにかくなんでもいいから乗せちまえ!」

ってことです。一度バイクに乗ってしまえば、ほとんどの人間はバイクの魔力に脳髄を焼かれる。バイク病に感染してしまえば、親が反対しようが、世間様に後ろ指さされようが、金がなかろうが、酷い目に遭おうが、私のように戻れなくなる。

リスクは世に周知されているけど、魅力が周知されていないんじゃ乗り手が増えるわけがないんです。「リスクをしっかりコントロールすれば、こんな最高な乗り物はないですョ!!貴方の人生に潤いを与える超ハイリターンで素敵な体験が待ってますよ。」ということをもっともっとアピールするべきです。

イメージ 1
(↑これはお色気路線のゴールドウィングF6Bですが、こんなの誰が見ても怪しいハニートラップです。しかし、ヤバいとわかっていても人はその魅力に抗しきれない時がある。いったんバイクに乗せれば、多くの人々が虜になることは間違いないんですが、そういうハニトラ体制がまったくできていない。)

だからこの状況を打破するために、まずメーカーが考えるべきことは、「未だ免許のない人にいかにバイクを体験させるか?」だと思うわけです。ショップでバイクに興味のある人を募って、各メーカーのクルーザーあたりに二ケツで乗せて疑似体験させちゃってもいいし、DCTの軽量アンダーパワー体験専用バイクを作って、教習所借り切って、無料で乗せちまうのもいいかもしれない。とにかくじゃんじゃんバイクに触れさせるということが一番の販促であると提言したい。これで免疫のない奴は一発で堕ちる。

アクセルひねって風を切る気持ちよさ、太ももに伝わるエンジン振動の快感、メット越しに見る景色の輝きとパノラマ、そして空気の香りを一度でも味わってしまえば、ソイツらはもうこっちの世界にくるしかない。

確かに、これまでと同じようなことをしてたらバイク人口は減少の一途でしょう。人口減少社会で来る者拒まず去る者追わずじゃジリ貧なのは当たり前。でも、どっぷりとバイク菌に冒された私のような重病患者からこの世の中を眺めれば、まだまだバイクウィルスに感染しそうな人は身近に山ほどいる。ただ「バイク乗りはあえてこっちの世界に誘わない」というだけです。

幸いにも今は感染経路がほとんどないのでパンデミックには至っていませんが、もし感染ルートをうまく作れれば、まだまだこの病は世の中に蔓延するのではないか?と常日頃から思っているんです。

過去にいろいろと辛い目にも遭いましたが、それでもなお私はバイクが好きです。自分が「ああ、生きてるなぁ・・」と実感できるのは、一人でバイクに乗って自由に走りまわっている時だけかもしれない。

結局のところバイクの将来はこれからの社会認識にかかっているように思います。「危ないから乗せない」とか「交通事情に不都合だから排除する」「管理されていないものはコストがかかるからダメ」という日本的な価値観を貫けば、この世から素敵なものの多くが消滅していくでしょう。それがあらゆるものに波及すると、とてもつまらない管理社会が生まれる気がする。

バイクのあり方は日本社会がどういう価値観を持って、どんな未来社会を作っていくのか?という根本的な問題に繋がってるように思うんです。自由には責任とコストが伴います。それを乗り越えてなお自由を求める選択をするなら、バイクは未来に残っていくでしょう。少なくとも私はバイクが走ることが許されないような社会は御免被りたいと思ってます。