実は昨年からずーーーーーーーーーーーーーっと悩んでいることがあるんです。

それは「CB1300SFをうまくテキスト化できない」こと。もうね。リアルにブチ抜けない壁ですね。王都ミットラスのウォール・マリアに進撃を阻まれて「あ゛~~」って唸ってる巨人とか、使徒の分厚すぎるATフィールドに攻撃を阻まれ、頭をかきむしって悶絶しているネルフ防衛隊の気分ですよ。

☆しび乃☆立ち絵
(2026年の最初を飾るのは、昨年から引っ張り続けてきたCB1300SFのインプレです。)

CB1300SFは昨年の5月に納車され、体にも染みこんできているものはあるんですけど、具体的なテキストとして、ちゃんとした形にできてない。別に怠慢こいているわけではなく、これまで何回かチャレンジはしているのですよ。でも、毎度毎度、分厚い壁に阻まれて、途中で放り投げちゃってるんですよね。

乗る度に「良いバイクじゃのう」って思うし、走行距離もわけがわからんくらいスルスルと伸びていく。でも「これだぁぁああ!!」って文章が書けないんです。産みの苦しみはハンパなく、鬼滅の刃よろしく出産の呼吸でヒーヒーフーしてもテキストがまったく出てこない。

「さっさとまとめてくれない?え?まだなの?」

「・・・使えない男」


って、☆しび乃☆さんに詰め寄られ、眉間に指あてて「はぁぁぁぁぁああ・・・」ってため息つかれる状態が続いてる。

これでは、マニアックな料理は饒舌に食レポするけど、一流料理店のメニューになると「うま~~い!!」しか言えず、バカ舌失語症になるB級グルメリポーターと同じではないか?

「HAHAHA!バカ舌は屋台の焼きそばでもリポートしてろ!」

って言われちゃうと、「まぁそりゃそうなんだけど・・」ってことになるわけですけど、やっぱバイクのブログをやってる以上、「こんなバカ舌でも、リポートのやりようはあるのだ!」ってことを証明したい。

CB1300SFが優れたバイクであるというのは、もはや疑いのない事実です。1992年にCB1000SFが登場してから、マイナーチェンジを繰り返しつつ33年間生産が続いたスーパーご長寿モデル。そこには「長い時間軸を越えるに値する何らかの価値が存在していた」ことは間違いない。その価値をなんとかテキストで表現しないと、このバイクの真相に迫ったことにはならないと思うんですよ。

年初のブログを書くにあたって、この「CB1300SFの価値とは一体何なのか?」っていう大命題を活字化しようと意気込んでいるわけですが、その一方で「私が考えてもロクな結論が出ないんじゃ・・」っていう諦めもある。それはバイクの問題ではなく、私自身にこのバイクを語る上で、「ライダーとしての厚みがまったく足りていない」と感じるからです。

このバイクは微妙な部分がとっても良くできたバイクです。旋回に至るまでの気持ちよさや挙動のブレなさ、直進時のド安定状態から旋回への自然な移行、速すぎず、また遅すぎずの倒れ込み、路面を捉えるグリップ感、各部の操作フィール。そんな一連のものが感覚的に統一されていて気持ちいい。本来どんなバイクにでも当たり前に備わっているものではあるけど、そのレベルがいずれも高く、どれかを高めるために、どこかを犠牲にしていないところが特徴。

そんな微妙なニュアンスを個別具体的に言語化しろといわれても、「ガバガバのダンブルドア採点」しかできない男にそれを表現できる語彙は存在しないのですよ。それができるようなら、途中で投げ出したりしてません。

でも、さすがにこのままでは終われない。私だって限定解除してから、数多くの大型バイクに乗ってきたわけですから、消費者としての評価軸には一定の自信がある。魔王と戦うようなS級冒険者にはなれないけど、下級冒険者として最前線で長らく踏ん張ってきた自負があります。

もはや手段を選ばず、バイクを表現する微妙な語彙がないのなら、私が得意とする世界に引きずり込んで語っちまえ!というというのが、このブログのコンセプト。だからこんな訳がわからないタイトルになっているのですよ。ではここから本編ですよぉ。


20251129_160232811
(素晴らしい景色に出会えそうだったので、川沿いの超細道に果敢に突撃。しかし、この土手上の小道はしばらく走ると行き止まりになり、この道幅でヒーコラUターンして戻ってくるハメに・・。CB1300SFのテキスト化は常にそんな状態でした。)

1990年代から2000年代にかけては環境問題やエコがそこまで意識されておらず、リッタークラスともなれば、設計にもかなりのワガママが許されていた時代。1990年代に入り、80年代から続いたレプリカブームが終焉。空前のネイキッドブームが幕を開けようとしていました。CB1000SFはそんな時代にホンダのフラッグシップとして生み落とされた大艦巨砲主義的バイクだった。

最初の頃のBIGー1のイメージって、もっともっと威圧的かつ戦闘的で「乗れるものなら乗って見ろ!」と乗り手を明確に挑発するエゴがありました。巨大な水冷エンジンを積んだその姿は、まさにホンダの不沈艦。しかし、そんな不沈艦が30年以上の時を経て、退役を迎えた今、まったく異なるイメージになっている。

私は長いことワガママにバイクに乗って参りましたが、最近は「バイクの色に染まるのも悪くない」って考えが強くなりつつあります。しかし、CB1300SFはこちらをまったく染めようとしないどころか、

「私、アナタ色に染まります。」

「ええ、どんな汚い色にでも・・」

って感じなんですよ。汚いは余計ですが、400ccのスタンダード・ネイキッドならともかく、バイク界における最大排気量の4発が「アナタ色に染まる」って、逆に「え?」ってなるじゃないですか。1300cc、270㎏の体躯は、大型に乗り慣れていない人にはラオウのようなバケモノに見えるでしょう。だから、多くの人が「乗り手がそれを躾けなければどうにもならん」という決意と覚悟で挑んでいく。でもね。30年以上、ホンダに愛を注がれつづけてきた拳王様は既に「夢想転生を会得済」なんですよ。だから、乗るとまったく闘気を感じず、流れるように乗り手を導いていく。

長年にわたり、いろんなものを背負いつづけ、最適化と調律を繰り返し続けた結果、その挙動から不協和音が消え去って、一糸乱れぬユニゾンをみせるようになっている。調和の中で全てが溶けあってるおかげで、フィーリングから「具体性が消えている」まである。このためどうにも底が見えず、インプレしにくいバイクになってしまってるんですよね。

高級な料理って、あらゆる贅をつくして、家庭料理ではまず不可能な複雑で深い味付けをしてくるじゃないですか。それが価格の根拠でもあるし、料理人の技でもある。でもCB1300SFは、腕のある料理人がいい食材使って、手間かけて作っている「素うどん」なんです。そこに料理人らしい自己顕示欲やアレンジは一切なく、性能も不必要に盛ってないし、過剰な具も存在しない。でも素材の良さと料理人の技術は存分に染みている。

CB1300SFって、質の良い食材の旨みや風味を全部ダシに吸わせて、見事に消し込んであるから、最初は「なぁんだ、普通のうどんじゃん」って思うんですよ。でも麻薬のように、うまいうまいって、バクバク食えるし、毎日飽きないし、量も入る。そのうち「ただのうどんがこんなに美味しいわけがない」ってバカ舌もうっすら気づいてくるわけですけど、バカ舌ですから「うどんなのに、ナニカチガウ」って表現しかできない。

CB1100にも同様のものを感じるんだけれども、あっちはオールドな乗り味でそれやってるから、今の時代にはそれなりに個性的で、まだ表現しやすいところがあるし、CB1000Fはあっという間に5000字かけるほど、わかりやすいアピールがある。それに対して、CB1300の良さは、かなり伝えにくいものです。

そんなCB1300SFとの私のバイクライフを、あえて表現するなら

「ユリアがケンシロウと結婚せずに、モブのモヒカン雑魚と所帯をもっている」

という状態に近い。「オィィイイ!そこはラオウじゃないのかよ!!」っていう人もいるかもしれないですけど、このバイクってもはや夢想転生を通り越して、メンタル的に慈母星味というか、ママ味、良妻賢母味まで身につけていますから、夢想転生後のラオウが記憶を消去されてユリアに転生したみたいな状態なんですよ。

ユリア様って言わずと知れた北斗の拳の絶対的ヒロインですけど、肉体言語が強すぎるキャラ達に埋もれがちで、なにが凄いのか読者にはイマイチ伝わっていない。でも、登場する幾代の豪傑達は、ユリアを崇めたり、我が物にしたりするべく、命をバンバン投げ出していくんですよ。ぶっちゃけ北斗の拳のラオウ編って、ユリアのフェロモンにやられた男達が織りなす大乱闘スマッシュブラザーズになっている。

ユリア2
(北斗の拳のメインヒロイン、慈母星のユリア様。理想の女性像を絵に描いたような昭和ヒロインですが、愛用の甲冑のデザインセンスに大いなる不安を感じるのは私だけ?)

CB1300SFも、ザ・ホンダとしていろんな人から絶賛されている恐れ多い存在。でも、「どんなバイクなの?」って聞かれると、白バイ採用ってこと以外に、そこまで強いイメージはなく、乗る前の妄想ではちょっとユリア様と似た得体の知れないところがある。で、手に入れてみると、極めて有能かつ奥ゆかしく、こちらを立てて、メチャクチャ言うこと聞いてくれるし、ほだしてくれる。

「だはは~、こりゃ言うことないんじゃね?」って最初は思うんですよ。でもね、半年も一緒にいると、立ち居振る舞いとか、座っている姿勢とか、しゃべり方から「一緒に生活するには、こっちも少しはポンコツから脱却する必要があるんじゃ・・?」ってうっすらと感じるようになるんです。

そんな私とCB1300SFの日常をあえて表現するなら、

「六畳一間の汚部屋でコタツに首までズリ込んでるモヒカン雑魚の横で、背筋を凜と伸ばしたユリアが、正座しながら一緒に深夜アニメを見ている。」

みたいな絵ヅラです。それってもう見るに耐えなくないですか?ケンシロウや雲のジュウザをはじめとするユリアガチ勢から、

「オィィィィイ!ユリア様にこんな下らんダメ生活をさせているのは貴様かぁあああ!」

「ふぬぅうううう!北斗残悔拳!!」

ってブチ切れられそうで恐ろしくなる。面の皮が足の裏の皮より厚い私でも、「さすがに、もうちょっと生活のクオリティ上げた方がいいのでは?・・」って思うようになるんです。

「良くできた嫁は駄目人間製造機である」っていいますけど、良くできすぎた嫁って、「駄目人間矯正機になる」。しかも、決して押しつけがましいわけではなく、こちらがそう思うようにそれとなく誘導してくるところがエグい。

CBって優等生的バイクって言われてますけど、私から言わせて貰うと「自分の至らなさを明確に自覚させられるバイク」なんです。同じ至らなさの自覚でも、そのまま駄目人間で居続けることを許してくれるハーレーと違い、駄目人間をまっとうに導いていくものがあるんですよね。

もうね。乗ってる間中、目の前に書の達人が書いた

「正しき操安」

という巨大掛軸がドーンとぶら下がっている感じ。そんなものを前にして、鼻くそほじりながらアニメ見つづけられる人間がどれだけいるのか?そういう意味では、これは高みを目指して精進を続ける人のための「生涯教習車」ともいうべきものなのかもしれない。

バイク業界もその時々でいろんなものが流行りますし、時代によってバイクの姿形は変わっていきます。でも乗り物における正しさって、そうは変わらない。与えられた巨大な出力を制御しながら、真っ直ぐ走り、綺麗に曲がり、安全に止まる。その4つは常に相反する要素であり、決して切り離すことができないものです。それを極限の槍のように尖らせて追求していくSSは素直に凄いと思うけど、その一方で、乗り手を含めてそれらを理想的な円にする試みを続けてるバイクって、ありそうでなかったりするんですよ。

CB1300SFやCB400SFは、そんな調和のベストバランスを追求し続けたバイクで、だからこそ乗り手に優しく、疲れない。でも、その理想型って良いパーツ組み込めばいいってものではなく、地道な調整を続ていくことでしか到達できないものです。そんな理想への歩みが、開発者や、消費者、公安の職業プロライダー達に支持され、長い歴史を刻むことになった理由なのではないか?と私は考察しているわけです。

北斗の拳のラオウ編には豪傑や英雄達が沢山出てきましたけど、蓋を開けてみれば、肉体強度をまったく持たない「慈母星のユリア」を中心として物語が動いていました。つまり乱世英雄伝の北斗の拳の世界ですら、中心となったのは物理的な力ではなく、ユリアという女性がもつ慈母星の概念だったということなんです。

物理的な強さや性能の高さは、新たな進化によって次々と上書きされていきます。しかし、バイクの中にある普遍的な理念や思想は、物理的な性能と切り離され、時を経ても上書きされることはない。それ故にバイクに込めた理念が明確で、その強度や純度が高いモデルほど、長きにわたり支持されていくと私は考えているんですよね。

CB1300SFやCB400SFは、性能というより、ホンダが提唱するバイクの理想のカタチを感じることに意義があるバイクだと思う。その理想の到達点はとても高く、そこに不純物はほとんどない。乗っていると、バイクの描こうとする美しい操安の円に乗り手まで引っぱられていく。でもそういう感覚は個別具体的なインプレッションをどんなに積み上げたところで、正しく伝わらない気がするんです。

そんな状態で半年間、いろいろ苦しみ、悩んだあげくの北斗の拳まみれ。拳王ラオウや南斗六聖拳最後の将、慈母星のユリアまで引っ張り出すという、わけのわからんインプレに落ち着きました(笑)

時間はかかりましたけど、私なりに、このバイクをなんとかイメージ通り表現できたのではないか?と、考えておる次第であります。

それではまた、次のブログでお会いしましょう。さようなら~。


(オマケ漫画「同族逮捕」)
☆しび乃☆指摘p1
☆しび乃☆指摘4.3
(本編と何の関係もない下らない漫画。普段真面目で仕事を黙々とこなす奴ほど、内面に得体の知れないぶっ飛んだリビドーを隠しもっているものなので、私の中で☆しび乃☆の超シスコンキャラは割とリアリティがあるんですよねぇ・・)