令和6年11月9日(土)朝4時に起きて、石川県珠洲市の震災ボランティアに参加してきました。今回はその顛末を簡単に。

今回参加したのは石川県珠洲市の外浦にある揚げ浜式製塩法の塩田泥出しボランティアです。

奥能登絶景海道1
(今回ボランティアを行った揚げ浜式の塩田はマップの赤三角部分にあります。)
震源地
(気象庁の資料では、ここは令和6年1月1日の能登半島地震の震源地に限りなく近い。なお、地元民は珠洲市の北側の海岸線を外浦、湾になった見附島側の海岸線を内浦と呼んでいます。)


奥能登は世界で28箇所ある世界農業遺産の一つに登録されておりますが、奥能登が農業遺産とされている理由は、能登の住民が守ってきた美しい里山里海と、全国でも珍しい海沿いの棚田である「白米(しろよね)千枚田」、そして今や伊勢神宮の奉納用に僅かに作られているもの以外、奥能登の一部地域にしか残っていない「揚げ浜式製塩法による塩づくり」という地域的特色によるものといわれています。

白米千枚田(夕日に輝く震災前の白米千枚田。輪島の公式ホームページより転載。)
(今回復興ボランティアに参加させて頂いた塩田の震災からの復興PRビデオ。震災被害をなんとか乗り越えて塩づくりを再開してほどなく、9月21日の激甚災害、能登豪雨で再び大きな被害を受けたようです。)

これらは全て、国道249号線、別名「奥能登絶景海道」沿いの農業遺産になります。揚げ浜式製塩法は海から塩田に海水を汲み上げて塩を作るので、全ての塩田が海沿いになるのは当然といえば当然ですね。

この国道249号線は、全国有数の景観を誇る海岸線沿いの快走路で、輪島市と珠洲市を繋ぐ大動脈でした。多くの観光地もここに集中しており、能登半島地震の前年まで、全国各地から、たくさんのライダーがやってきていた景観道です。私がこれまで走ってきた道の中でも、

「元気が出るルートNo1」

だったといえるでしょう。走っていると感じるのですが、この249号線沿い全体がパワースポットなんです。能登を走るととにかく元気が出て鬱々とした気分が吹っ飛ぶので、私はヒマさえあればとりあえず奥能登絶景海道に向かうっていう、石川県民の典型的なバイクライフを送っていたんですよね。

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(これは昨年の10月。震災の3ヶ月前です。走るたびに胸に迫るものがある素晴らしい景観道でした。このエリアは震災で道路がところどころ破壊され、住民は全戸が避難。この道も徒歩でしか通ることができません。石川県のバイク乗りとして能登ロスが酷い。あの日に還りたい・・。)

令和6年能登半島地震で、この国道249号線はトンネル崩落、道路大規模崩落で寸断されてしまい、現在まで開通復旧ができておりません。このため塩田に到達するには旧道を通って内陸部から海側に抜けることになりますが、これらの道は整備状況が悪く、地震と豪雨で木が倒れたり、崖が崩れたりで、視界の効く日中でないと走行が危険な場所が多々あります。もし事故やトラブルにあっても救援は期待できませんので、物見遊山で奥能登に入るのは自粛した方がいいと思います。

珠洲市の一部は震災のあった令和6年1月1日から現在まで断水が続いているため、住民は食事を作ることもできず、トイレも使えません。この間、避難所で配給されている弁当を食べ、体を洗うのは自衛隊が設置したテント内の仮設公衆浴場、トイレも仮設トイレや簡易トイレです。

大型の重機が行き来できる道が限られ、工事業者が逗留できるインフラも整備されていないため、公費による全壊、半壊建物の解体作業は進まず、トイレも食事もないところに、大人数のボランティアを受け入れることもできず、復興は遅々として進んでいません。「震災から時が止まってしまっている」と言っても良い状態です。テレビで景気よく放映されるのは復興が一定程度進んでいるところばかりで、明るいニュースソースがなく、希望もない外浦はほとんどカメラが入らない。

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(1月1日から時が止まっている外浦の風景。珠洲市は復興どころか、未だライフラインの復旧すらできていません。)

そんな中、千枚田や塩田は震災以降、地域住民の努力で世界農業遺産の復興に動き出しており、白米千枚田は今年僅かながらも新米が実り、塩田も夏の盛りに揚浜塩がとれるところまで回復していました。しかし、9月21日に発生した線状降水帯による集中豪雨により、再び全てが無に帰してしまった。白米千枚田は豪雨による土砂崩れで、山中にある取水口一帯が崩壊。田に水を引くのが困難になってしまいましたし、揚げ浜式の塩田には崖から大量の土砂が流れ込み、塩作りの生命線ともいえる塗り浜が、汚泥で覆われてしまいました。

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(ボランティアの主催から提供を受けた、9月21日の能登豪雨直後の塩田の様子。流れる雨水と共に大量の土砂が塩田の塗り浜を覆い隠しています。)
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(水害の後、流れ込んだ泥濘が渇いた状態がこちら。ボランティア作業前の状況です。)
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(崩落した国道の土砂が塩田に流れ込んで、塗り浜が覆われてしまっています。)

元日に能登を襲った大震災は4000年に一度といわれる世界的にも類を見ない大規模な海底隆起を伴うものでしたが、9月21日の線状降水帯による気象災害も非常にまれな現象で、1000年に一度の確率で起こったものというのが専門家の見解です。つまり奥能登は4000年に一度の地震災害1000年に一度の気象災害に僅か10ヶ月の間に2度も襲われてしまった悲劇の地となりました。短期間に2度の激甚災害指定を受けるなんて、こんな理不尽なことがこの世にあるでしょうか?

それでも、なお珠洲市で里山里海を守り、この地域で頑張っていこうという地元の方々が、今回の災害ボランディアに参加しておられました。

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(塗り浜はデリケートなため、それを痛めないよう手作業で岩を除去し、スコップと一輪車で泥を運び出していきます。)
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(参加していたのは地元珠洲市の方々と石川県立大学、金沢工業大学の学生とネットの呼びかけで集まった一般ボランティア約60名。トイレは住民のための仮設のものしかないため、小はともかく大の方は現地でもよおしても携帯トイレで行うか、ガマンするしかありません。まぁハードワークで大などもよおしてる余裕もないですが・・。)

作業は午前9時頃から浜に入ったボランティアが随時作業を開始し、午後2時30分頃に終わりました。完全ではありませんが、かなりの土砂が撤去され、塗り浜が顔を出しています。これでまた塩が作れるようになれば良いのですが・・。

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(抜けるような晴天の中、作業は順調に進み午後2時半に終了。まだ多少土砂が残っていますが、この時間に帰り支度をはじめないと、日が沈むと奥能登を抜けられないんですね。)

帰り支度をしていたときに、地元珠洲市から参加しておられたボランティアの方々が、「じゃあ、我々も避難所で風呂を借りて弁当を貰って帰ろうか」と笑いながら話しておられたのが忘れられません。この地域では災害により生じた非日常が、既に当たり前の日常になりつつある。それに対し住民の方々が怒るでもなく、悲しむでもなく、受け入れ、慣れていってしまっていることが、この地域の深刻さを際立たせていると感じました。住民はこのような中、仮設住宅や避難所で厳しい冬を迎えようとしています。

珠洲市の復旧が遅れている原因は、端的にいって

「交通ルートと水がない」

からであることは素人の私にでもわかります。それがわかっていてもどうしようもない現状にもどかしさを感じてしまう。このまま時間が経てば経つほど、珠洲市に戻ってくる住民は少なくなっていくでしょう。同じ奥能登の輪島市などは緩やかにではありますが、復興が少しずつ前に進みつつある中で、取り残されている状態にある珠洲市の風景からは、既に見捨てられ感すら漂っています。私には何の力もありませんが、住民の方々の一刻も早い生活の回復を願いつつ、今回の災害ボランティアの報告とさせて頂きます。

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(震源地に近いだけあって、非常に広い範囲で海底隆起が生じています。隆起の先には美しい海が広がっていますが、能登豪雨の後しばらくは海は流れ込んだ土砂で茶色に染まっていたそうです。)
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(昼休憩時に、隆起した部分に下りてみました。海底の岩が白く染まり、空には海鳥すらおらず、あたりは静寂に満ちている。抜けるような空とあわさって、まるで生命の絶えた浄化された世界のようです。)
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(海側から見た塩田です。去年までは、ここは海の中だったわけで・・。なにか不思議な気分になりますね。)

なお、翌日は全身の筋肉がバキバキで、ダイナでコーヒーツーリングに出たものの、終始ヨロヨロと頼りない走りっぷりに・・・・。あらためて体力のなさを自覚してしまいました・・・。(でもヘタレなので鍛える気はありません。)

今回は少々イレギュラーですが、次回からバイクのブログに戻ります。