皆さんご存じのとおり、ダイナは8年前このブログをはじめる遙か前からずっとバイク小屋に居座ってる牢名主です。ブログ記事数も多くなり、気づけば、もう107記事ですよ。いよいよ次回で、煩悩の数と同じ108記事というメモリアルを迎えてしまう。

「よくもこんなにたくさん見下げ果てたネタをひねり出してきましたね」

っていう人もいると思うけど、このブログってバイクのこと書いているようで、それにかこつけて、電波テキストを垂れ流してるだけなんです。で、くだらないことを自由に書いている時が一番ストレスが抜けて気持ちいいんですよね。排便と同じで駄文排出作業で爽快感を得ているだけだから、特段ネタはいらないし、排出過程で、私の脳の中にあるいろいろな汚物が、テキストの中に露呈してしまってるのだろうと思います。

実をいうと前回のブログはかなり難産だったんです。締めにガラにもなく「老子」なんて単語出したら、指じゃなくて、頭でテキスト考え出して、テキストが止まっちゃったんですよね。もうね。知恵熱で頭が空冷エンジンのように熱ダレして、最後の締めを書くのに3日くらいかかってしまった。

改めて「私は勢いだけの頭カラッポ型のテキスト自動手記人形である」って再認識した次第。そりゃ高校の授業なんて高2のあたりから、ほとんど出てなかったんですから、そこはしょうがないと思う。ただ、言い訳になりますけど、断じて「授業をサボった」わけではなく

遊びと自主性を重んじたのです

その結果どうなったかというと、凄い勢いで下層に流れていったわけですよ。もうね。親からすれば「こんのスカポンタァァァン!!」ってことになるんだけど、ベビーブームの時代は、若者が社会にタプタプに満ち溢れていましたからねぇ・・。私一人くらい離脱してもまったく影響はなかったからセーフ。受験戦争も激しくて、全ての教科の偏差値平均値の高い人達を将来の日本を支える有能企業戦士として選別してましたから、私みたいな偏ったところでしか力発揮しない奴はダメ認定だったんですよね。

私は戦況を冷静に確認し、いかりや長介よろしく「ダメだこりゃ!」とつぶやいて白旗を掲げ、脱出レバーを引いたんですけど、当時の脱出装置は戦闘機みたいに上に射出されるのではなく、新幹線のトイレ式で足下がパカッと割れて、合併浄化槽に凄い排水音と共に流れ落ちる仕組みになっており、ドロップアウトの仕方もなかなかの垂直落下でございました。

このブログは、そんな下水に落ちたリケッチアが、ほの暗き汚水の底からデリバリーしているものですから、基本、見下げ果てた中身になってるのはしょうがないんです。でも、そんな男と、ずーっと一緒にバイクライフを送ってくれてる奇特なバイクがダイナなんですよね。

「なんでこんなに長く乗ってるのかな・・」って改めて考えると、それはダイナが「カタログスペックという偏差値主義とはまったく無縁のバイク」だからだと思います。カタログスペックってのは、バイクの偏差値表なんですけど、それとは別の「定量化できない価値」ってのが、私の好みにおいて、かなり大きなウェイトを占めてます。乗り味とか操作性、耐久性や信頼性なんかもそう。ただ、人の感覚や印象って数値化やレシピ化ができないから、その手のものは表現がしづらいんですよね。人によっても、その評価や感じ方は大きく異なるから、販売面では数値的なものの方が、根拠と説得力がある。その点でいうとダイナって典型的な「数値的価値に依存しないバイク」といえます。

私の所有するバイクは大型の中でも全般的にスペック低めのバイクが多いんですけど、ダイナを初めとするハーレー、特にTC時代以前のハーレーはスペックでは底辺中の底辺です。最近のハーレーさんは馬力を公表するようになったけど、当時は低偏差値すぎて、スペックを公表してないですからね。これは我々が赤点の答案隠したくなるのと同じ真理でしょう。今回はそんなスペック無視のダイナのどこが好きなのかってのを語っていきたいと思うんです。

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(朝焼けのハーレー。ただいま朝5時30分。)

ハーレーって巷ではキング・オブ・バイクって言われてますけど、私はハーレーの歴史とか、カルチャーって、あんまり重要視してないんです。私は目の前にあるダイナそのものに価値を見いだしてるんで、過去はあんまり関係ないんですよね。

ハーレーの100年を超える歴史には敬意を払っていますし、アイデンティティの継続と積み重ねは素晴らしいと思いますけど、それが今の時代に何らかの意味をもち続けているのでなければ、見方によっては「過去にとらわれてるだけ」ともいえると思う。

ハーレーの「自由の概念」も私にとっては過去のもので、私はあの頃のアメリカの自由が欲しいのではなく、今感じられる自由が欲しいわけです。

イージーライダーの頃にハーレーが背負っていた自由って、支配層が定めたルールや、古いアメリカの保守的で閉じた世界がもたらす偏見や因習からの離脱と解放だったと思うんですよ。

スタイリングの押しつけを拒み、既存の常識から、自らのバイクを解き放つのがチョッパーであり、自分達を抑圧している社会や一般大衆の非難の声をかき消し、威圧することができるのが爆音ハーレーの力強い三拍子だった。ハーレーはご自慢のVツインからサイレンサー抜くだけで騒音発生器になるんだから、威嚇兵器としても実に優秀なんですよ。

そういう70年代のハーレー像は、当時ベトナム戦争で疲弊し、荒廃したアメリカの社会背景や分断の中で必然的に生まれたものだと思うんです。その頃のハーレーって「既存の社会正義に対して、そこに収まらない自由という独自の価値を掲げる」っていうカウンター・カルチャーの象徴だった。経済的成功を至上とするブルジョアジー達のハイブロー・カルチャー(高級文化)に対して、恵まれざるものの抵抗としてのカウンター・カルチャーが生まれる社会的素地があったんですよね。

これに対し、今のハーレーって、旧車も新車もとんでもなくお高いし、店舗も豪華で「ハーレー自体が、かつて反抗の対象としていた、ハイブロー・カルチャーの中にすっぽり入っちゃってる」わけです。

2000年代に入り、アメリカは世界一の消費市場として繁栄し、国全体に富が行き渡った結果、ハーレーはカウンター・カルチャーとしての存在意義を失って「懐かしきアメリカの姿」「若かりし頃の憧れ」「強い男の象徴」になり、富裕層の趣味として支持されるようになっていく。

アウトローもクソも現在のハーレーを買える層って、経済的に満たされていている層で、社会に対して反抗する大義などどこにもないわけですよ。大義がない以上、一線を越えれば、単なる迷惑行為として社会的な非難を浴びることは避けられないんです。

ハーレーに限らず、バイクって漫画やメディアでも、男らしさや、レジスタンスの象徴みたいな捉え方されていますんで、バイク乗りは大概一度はそういうものにかぶれる。私も若い頃キリンを読んで「バイクおち〇ぽ思想」に染まっりきって、業界のイメージを落とすようなことを繰り返していましたから、人のことは言えた義理じゃありません。ただ、私の場合は活動時間が深夜でしたし、時代的にコンプラもユルかったし、年齢的にも「認めたくないものだな・・若さ故の過ちというものを・・」でオチがつくお年頃でしたけど、でもそれで過去の悪行の罪が消えるわけでは決してない。

私が自らの経験からいえるのは、その手の快楽主義者の反社会的行為を、カルチャーや思想で正当化したり、美化したりというのは、非常に危険だということです。どんなに理由をつけたとしても、社会の常識から外れたところで第三者に迷惑をかければ、それは明確な「罪」です。それに対して、思想って鉄壁の自己正当化だから、それを変に取り込むと「自分の行いが許される、格好いい」って勘違いするんですよね。しかも、それは「その世界にいる共同体の中でしか理解されない」っていう意味ではカルトに近い。第三者的な目線で見れば「勝手に裏設定を盛りまくって暗黒ヒーロー化してる中二病の邪気眼使い」と同じなんです。そんな世界にどっぷり浸かってる時の言動は、後日振り返ったときに、恥ずかしさと後悔で、身もだえするような黒歴史になりかねない。

私の三京時代は、社会に対する超絶劣等意識と、破れかぶれの自己陶酔で邪気眼が開いちゃってる状態でしたから、最悪の黒歴史になってます。デロリアンでバック・トゥ・ザ・フューチャーして、過去の自分自身をバックドロップで脳天から落としたいくらい。もうね。アホは、アホを自覚して、アホさと折り合いを付けるまで症状が治癒しないってことがコレまでの人生で証明されてます。

ちなみに私は、「邪気眼ダークヒーロー路線」から足ヌケしたあと、あろうことか、「リアル重課金アバター路線」に突入し、自分らを高額な装飾物でフルアーマー化して勇者になろうとするんですよね。その下心を見事に消費の悪魔に見透かされ、ケツの毛まで抜かれて貧民農場に送られています。

何かを手に入れたり、身につけたりしても、所詮モブはヒーローにはなれんのですよ。ショッカー黒骨戦闘員を仮面ライダーに改造したら、仮面ライダーになれると思うでしょ?違うんですよ。仮面ライダーの姿で「イーーーーーーッ」ってやってるだけなんです。

そんな黒骨戦闘員がハーレーに感じている自由って、「ヒーローになれ!!」って言わないとこなんです。マリファナ吸ってるヒッピーに好かれちゃうような乗り物ですから、そこにややこしいことはなんもありません。ダイナは機械と人との関係において、バイクが乗り手を縛らず、乗り手に何にも求めないんですよ。その反面、乗り手がバイクを縛ろうとしても、これまたうまくいかないんですが、それがヒーロー願望に敗れた私には凄くありがたい。

ダイナっていうバイクは、たとえレーサーが乗ったとしても、ノーマルだとハーレーの枠内の走りしかしないどころか、「お前は速すぎる。間違っている。」と説教たれかねないんです。私がダイナに乗ってて感じる自由は「乗り手とバイクが馴れ合わない」からこそ生まれるもので、それは国産のバイクにはあまりないものなんですよね。

初めはさすがに「何じゃコレは!終わってるやんけ!!」って思いましたが、ハーレーってまがりなりにも、キング・オブ・バイクなんて言われてるから、「いや・・ひょっとして俺が間違ってるのかもしれん・・」って思わせるものがあるんですよ。

そこで、いったん立ち止まり、バイクの個性を認め、カスタムであれやこれやと互いの距離感を摺り合わせていけば、やがて近すぎず、遠すぎずのぬるま湯ような気楽な相互信頼、相互依存関係が生まれていく。そしてそれが公道環境に綺麗にフィットするんです。私がダイナを買い換えないのは、ダイナと私との間で長い時間かけて試行錯誤しながら築いてきた居心地の良い距離感に数値化できない価値を感じているからです。新型ハーレーに変え、数値的な性能が向上したところで、今の絶妙な距離感を得られないことがわかりきっているんですよね。

この世の多くのバイクは、乗り手にフィットして寄り添ってくれます。乗り物である以上、それは正しい進化の方向です。でも、それは素晴らしい反面、そこにパワーを盛りすぎるとバイクが自分の意志どおりに動くパワードスーツみたいになるんで、乗る人間の良心が試されちゃうんですよね。私みたいに良心回路がうまく機能してない人間に、出力設定を間違えたパワードスーツを渡したら、自分で自分の快楽衝動を抑えなきゃならなくなる。それがコントロールできないから、事故10回もやってるんです。

ハーレーはその点で「無茶な走りをバイクがさせない」っていう安心感がある。私のようなバカな乗り手に対する躾が完璧なんです。スポーツ走行してても、乗り手がどんなにサカっても、ハーレーは自分の正義を譲りません。走り屋さんはそういうバイクは抵抗があるとは思いますけど、受け入れてしまえば、遅いのを全部バイクのせいにできるから最高ですよ。

エンジンから溢れるエネルギーを公道環境にどう落とし込むか?それを乗り手にどう楽しんで貰うか?っていう点については、各メーカーが、いろんな回答を提示しているし、メーカーによってスタンスが様々なのは面白いですけど、ハーレーは、それを最も原始的かつ効果的にやっている。

「サーキットの正義を体現したものがSSだとすれば、公道での正義って一体何なの?」

っていう正解のない命題への一つの回答にはなっているんですよね。

私が感じるダイナの自由さって、最近話題のオーブンワールドゲームみたいなもんかもしれない。バイクが乗り手に干渉してこないから「積極的に何かをしなきゃ」って意識にならないし、乗り手が何をしてもバイクが許してくれる感じがする。峠を走らなきゃとか、高速メインでとか、ロングライドを・・とか、そんな縛りもなく、適当にユルーく走っていけるんです。

私はバイクに乗る時に、出先でなにをするか計画することがほとんどない適当野郎で、唯一、美しい景色の下でガソリンストーブで湯を沸かし、コーヒーを飲んでマッタリするっていう趣味だけがずーっと続いている。それは、どんなものも「最高の景色の前で飲む淹れ立てコーヒーの素晴らしさには勝てない」からなんです。以前は遠出ができるソロキャンプしながら、「明け方の一杯が美味いんだよね~」なんて言いつつ、コーヒーを入れたりしてたんだけど、夜逃げみたいな大荷物積むのが面倒くさいのと、キャンプ場は人がいるから一人になれないのが厭だったのと、仕事上の理由で泊まりが厳しくなったのでやめちゃいました。今ダイナに積まれてるのは、10年以上使ってるチェアワンとコーヒーセットだけ。バイクであてどなく走り、眺めが最高のスポットを探し、そのど真ん中に椅子を設置して、誰の目を気にすることなくコーヒーを飲む一点に特化してます。

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(穴場スポットで、雄大なシュチュエーションを独り占めしてコーヒーを飲む。それが私の楽しみです。)
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(もうね。こんなのコーヒーが美味いに決まってますよ。夏は日が沈んでも暖かいから、「夕焼けコーヒー」ってのが最高の季節。ソロキャンだとここからテント張って焚き火したりするけど、私はさっさと撤収し、クーラーのある家のベッドで爆睡。楽しいとは、楽なこと。たまには苦労も良いけど、苦を取り去った方が長続きすることは間違いない。)

結局のところ、私の求めてる自由って、ちっぽけで大層なものではないんですよね。箱庭のようなエリアの中で、好きなところに出張って好きにコーヒー飲むってだけ。でも、邪気眼開いてた頃や、リアル重課金アバターやってた頃に比べると、「すごく楽だし、幸せだな~」って感じてる。あの頃は常にガツガツしてて、切迫した飢えのようなものがありましたけど、それを満たす為にリスクを負ってアクセル開けたり、大枚はたいて手に入れた満足って、やっぱどこかに無理があって、歪んでたんですよね。所詮それはどこまでいっても誰かから与えられた価値観で、私はそれに追従していただけだった。そんな程度のものだったから、自分自身が選んだ穴場で、最高の風景見ながらぼーっと飲む単価わずか20円のレギュラーコーヒーの満足感に勝てないんですよ。

つまるところ、本当の自由って、なにものにも依存することなく、影響を受けることなく、自分だけの価値観を立てることにあるんじゃないかって感じるんですよね。

ダイナと付き合いはじめて16年、この間に私のバイク観は随分変わりました。今の私はヒーロー路線を諦めたモブキャラで、大したことはやってないし、ダイナだって大したバイクってわけでもない。そこにあるのは炭酸が抜けたコーラのように刺激のないルーティンな日常なのかもしれない。でも、そういうところにちゃんとフィットして、だらしない乗り手を黙って支えてくれるバイクって、ありそうで案外ないんですよね。

私とダイナは乗り手とバイクが互いに依存せず、求めあわない関係だからこそ、長く続いているんだと思います。まぁ相性の良さも多分にあるとは思うし、維持費はハーレーらしくキッチリ求められるんで、その点は擁護のしようがないんですけど(笑)



オマケ漫画です
重婚さんいらっしゃい!
(具体的に何がいいのかわからないところに真の良さがある気がするから不思議。性能云々ではなく、人という生き物をよく理解して作られている感じがいたします。)
帽子をあげる3
(久々のダイナの1枚絵。さすがに8年も描いているんで、キャラとしては一番描きやすい。やっぱこういうサバサバした性格が私の好みってことなんでしょう。)