えー、9月15日付けでブログのヘッダーを変更いたしました。ヘッダーに登場するのはヴィーセ本口(モトグッチV7)さんなんですけど、背景はAI生成で作られた無料素材を使用させて頂いています。

AI生成って、今いろいろと叩かれていますけど、この流れってもはや止められないと思うんですよね。ぶっちゃけカラー背景をこのクォリティで手描きしようなんて、美大でも出ていない限り不可能ですけど、AIなら一瞬で仕上がっちゃうんですよ。まさに量産最強絵師。こっちは睡眠時間削ってシコシコと描いてるってのに、まったくスゲぇことですよ。

ヘッダー・パソコン・ヴィーセ3+1
(ヴィーセの下絵。いつもながらかなりラフです。)

その量産性もあってか、ネットに上がってる無料素材等にもAI生成の背景が溢れるようになってきて、私みたいな低レベル絵師には、とてもありがたい状況になってます。だって、個人使用も商業利用もOKで、販売さえしなければいいんですから、ビタ一文儲ける気のない個人ブログでは使い放題ってことです。ということで、今回はクォリティ爆発のAI背景をバックに当て込んでみました。うーん、とってもラクちん。調子に乗ってパソコン用とスマホ用で、都市と夜空の2タイプを設定しています。

ヘッドライトテールライト・ペン入れ+1
(ペン入れ。カラーにするので線の強弱はほとんど付けてません。)

秋の担当キャラとなってるヴィーセ嬢は、今回はこの美しいAI背景をバックにマイクを持って、歌姫として登場してます。

ハッキリ言って、ビジュアルが完全に「黒い初音ミク」ですな。「ふふ・・完全に劣化コピーじゃないか!?」って自分でも思いますもん(笑)

縦Vのモトグッチはツインテールキャラにしようと最初から決めてはいたんですけど、昨年のヘッダーで初登場させたときは、初音ミクに寄せたくなくて、縦寸法を詰め、「もう少し幼い感じで、上から目線の偉そうなキャラにしよう・・」って思ってたんですよ。

ヘッダーイラスト・スマホ2
(こちら昨年秋のヘッダーです。当初はもっと縦寸法を縮めて老成してて小生意気なマセガキキャラを予定していました。)

でも、当初、熟女キャラの予定だった※のじゃ子が、途中からコスチェンジして、イジられ役のポンコツのじゃ系くノ一にギャグ落ちしちゃったんで、ヴィーセはキャラが被らないようにした結果、自然に「宝塚の男役っぽいキャラ」に変更されていったんです。それにあわせて頭身も上げたら、初音ミクっぽくなっちゃったんですね。

ヴィーセ色塗り
(まさに黒い初音ミク。どうしてこうなった?)

まぁでも、これはしょうがないんですよ。初音ミクさんって私の中でもアイドルであり歌姫で、世界も認める日本を代表するキャラの1人ですから、好きなものに似ていってしまうのは、もうやむをえないと諦めてます。

ということで、「どうせミクさんに似ちゃったのなら、この際マイク持たしちまえ!」って、自虐に走ったのが今回のヘッダーってわけなんですね。

そりゃわかったけど、このヘッダーのヴィーセ嬢は何を歌ってんの?

いやいやおっしゃるとおり。そこが今回のブログのお話しになります。

記事ページでは、趣味に走って戸川純の「好き好き大好き」を歌ってますけど、顔になるトップヘッダーでナニを歌わせるかは悩むところ。

V7ってオールドライクなバイクだから、やっぱり「バイクがブームだった、あの頃感があった方がいいじゃないですかぁ♡」ってことで、いろいろ考えたあげく背景に合わせて時代感のある2曲を選びました。まず明るい未来都市を背景にしたヴィーセの歌う曲は、いろいろ悩んだ結果、こちらに決定。

背中越しにセンチメンタル
(こちらスマホ版のヘッダー画像、背景は未来都市です。)
(じゃーん「背中ごしにセンチメンタル」です。)

60代から50代のアニメファンは「ひぃぃぃいいん!!懐かしぃ~!!!」って感じじゃないでしょうか。

この曲は、OVAの黎明期に発売され、大ヒットしたアニメ「メガゾーン23」の主題歌なんですよね。曲調も80年代頃の青春ソングの甘酸っぱくてちょっと切ない香りがプンプンしてます。

歌の動画見て貰えばわかるんですけど、このメガゾーン23シリーズは80年代の東京、特に当時の渋谷周りをアニメで正確に描写しているんです。で、主人公の愛車はスズキのGS650ですよ。「誰だよコレ選んだの?」って感じですけど、そのマニアックさからもわかるように、製作には当時のバイク好きのスタッフが沢山関わってて、全編にわたってバイクがたくさん出てくるんです。主人公ロボットのガーランドもバイクから変形する人型ロボットってことで、もう徹底的にバイクに寄せたアニメといえる。その前にはモスピーダっていうバイクからパワードスーツになる奴とか、バイクが遠隔操作型ロボットになる電人ザボーガーとかがありましたけど、こっちは純粋な人が搭乗できるロボットですからコレはアツい。


プロトガーランド
(こちら、メガゾーン23の主役メカのガーランド。これは人が搭乗する変形ロボでは最も小さいサイズでしょう。当初実現不能と言われていた、バイクからロボの変形ギミックを立体モノとして実現してるのは凄い。)

この流れでわかると思いますが、主題歌の「背中ごしにセンチメンタル」って「盗んだ変形ロボ型バイクに若い男女が2ケツしてドキドキ♡」ってことなんですよね。

今の御時世にこんなこと書くと、「盗んだバイクで走り出し、あまつさえイチャイチャなんて、けしからんではないか!!」っていう、つまんない常識人が出てくるんですけど、あの時代を知らない人に、なに言っても無駄なんですよ。わかり合えない。そもそも、1970年代から80年代の若者は「盗んだバイク」というワードに抵抗感など、まったくありませんでしたから。それはなぜか?あの時代に生きた若者にとって、バイクはクソ息苦しい「管理型社会体制からの逃避を象徴する乗り物」だったからです。

80年代の若者の自由って、「誰かが自分達の同意もなしに勝手に作ったルールを徹底的に拒絶する」ってことだった気がする。

だから、暴走族はみんな特攻服着て、赤信号に突撃してたんですよね。あれは、彼らがバカだからあんなことしてるんじゃないんですよ。「たとえ死んでも、何者かが自分都合で作ったルールには従わない」という、彼らの社会に対する体を張った抵抗だったんです。でも、当時を知らない今の人達から見れば、そういうのって「バカが犬死にしてただけ」にしか見えないんでしょう。

でもね。あの頃の日本は、物質的には確かに豊かでしたが、それを得るためにいろんなものを置き去りにしていたわけですよ。優秀な労働者を生産する教育システムに馴染めない若者達には、出来損ないのレッテルを貼って選別するだけ。経済競争以外の夢や未来をうまく提供できてなかったんですよね。こんなブログ書くような、私みたいな奴は典型的な排除組です。

その敗者達にとって、自分達を脇に追いやった社会のルールに反抗することに、大きな意味があったんです。そして、当時の世の中はそういう反抗を「社会を回すための必要悪」として受け入れ、遠目で眺めていたところすらあった。そんな時代背景に今の常識を当てはめて、当時の若者達を否定すること自体が無意味なんですよ。だって、そんなお馬鹿さん達の抵抗を経て、ようやく今の社会が実現しているんだから。

バイク
(バイクは写真からイラストソフトのフィルター機能を駆使してイラスト化し、ライダーは手描きっす。)

「でもねぇ・・バイク盗んだらもうその時点で犯罪者でヒーローじゃないじゃん?」ってツッコミもあると思いますけど、いやいや、何をおっしゃいますやら。そもそもバイクヒーローの代表格である仮面ライダーのサイクロン号からしてショッカーからパクったバイクじゃないですか。原初のバイクヒーローが既に盗難品に乗って悪を倒していたんです。逆に、悪の組織からパクったからこそ、そのバイクが体制に対する反逆の象徴になってるまであるんですよ。

まぁそんなわけで、当時は似たような設定が沢山あったわけですけど、この手の盗んだバイクで走り出した系で、一番酷い例は、映画界の金字塔「AKIRA」の主人公、金田正太郎君でしょう。

金田のバイク

あまりにも有名なあの赤いバイクは、公式設定では実は盗難品なんです。それは70年代、80年代には良くある設定だったから、まぁいいでしょう。ヤバいのは盗んだバイクにもかかわらず、公式名が「金田のバイク」であるってことです。この正式名のせいで、私はずっと「金田君が必死にバイトして購入したバイク」だと思ってたんですよ。さすがに酷くないですか?だって、真の所有者の佐藤さん(仮名)が現れて、自分の所有権を主張したとしても、ネーミングが「金田のバイク」じゃ、もはやなすすべがない。

「おぉぉぉおおおい!その金田のバイクは、この佐藤(仮名)のものなのだぁ!!」

っていう、凄くシュールなやりとりになってしまうわけですよ。

金田のバイク1(あまりにも有名な「金田のバイク」のドリフトシーン。バイクに乗るアニメファンの憧れですが、実際は盗難品なので金田のものではありません。)

このような当時の流れに乗って、メガゾーン23の主人公、矢作省吾も、80年代の東京を舞台に軍から盗んだ変形バイク、ガーランドと共に、時には保守的社会の守り手である公安と戦い、時には軍という大人の世界の汚さと戦い、そして最後は宇宙規模の運命に翻弄されるという物語になっているんです。特にガーランドはバイクが人を乗せたままロボットに超絶変形しちまうという熱すぎるコンセプトで、約40年が経過した今でも人気が高く、アニメ史に残る変形メカだといえます。

まぁ80分程度の尺のSFアニメの中に要素を詰め込みすぎて設定も進行も穴だらけなんですけど、当時のバイク乗りの「享楽的で退廃的な雰囲気」はしっかりあるんですよね。パート2のラストシーンではバーチャルアイドルのイブの歌に乗って、渋谷の街が緩やかに崩壊していくんですけど、そこに悲壮感なんか微塵もなく、なんとも爽快で、気持ちが良かったことを記憶しています。大人達が作った旧世界、自分達を入れた巨大な鳥かごのような世界が、未来のバーチャル歌姫の曲と共に崩壊していくシーンには、なんとも言えないカタルシスがあったんですよ。

このようにメガゾーン23は当時の若者の熱というか、カルチャー要素が全部盛りのアニメだったんですけど、実はこのアニメが私の印象に残っているのは、そういう理由からじゃないんです。

実は、このメガゾーン23にはそれまでのアニメにない野心的で実験的な側面がありました。TV放映されない販売用のOVAの自由度の高さをいいことに、いろんな一流クリエイターが集い、それまでのTVではやれなかった常識破壊をやっちゃったんですよ。そう、このメガゾーン23シリーズには極めて残酷なグロ描写と、良い子には決してお見せできない「主人公とヒロインのベッドシーンが入っていた」んです。いや~ベッドシーンですよ、ベッドシーン。これが当時のアニメファンの股間を打ち抜いたんですね。というか、当時、メガゾーン23の話題は、メカやストーリーそっちのけでこのベッドシーン一択だったとも言える。背中じゃなくて「股の間がセンチメンタル」になっちまってたんですね。

これらのベッドシーンは現在配信されてるアニメではゴッソリ削られちゃってるらしいですけど、当時のビデオにはちゃんと入っていましたし、非実在青少年だ~、不健全図書だ~ってやってる今の基準でいうと、全然大したことはないんですけど、それでも当時の中学生には衝撃しかなかったわけです。

80年代のこの手のアニメって、「いたいけな青少年をサルに変える神経毒」のようなものだったんですよ。まだ性の発信について閉じていた時代に、今をときめく美樹本晴彦キャラでベッドシーンやるなんて、刺激レベルが突き抜けてる。尺が数十秒にすぎなくても、もう鼻血ブーですよ。しかもこれ、成人指定じゃなかったから、中学生が視聴しても合法。これはヤバい。ヤバすぎる。

もうね。あの頃、中坊だったアニメファンはいろんな意味で「メガゾーン23が見たくて見たくてしょうがなかった」んです。もはやアニメというより、妄想の根源ですよ。エロスの神です。でも、当時のOVAってバカみたいに価格が高くて、お小遣いでは手が出ない。月の小遣い1500円の頃に、定価1万3千円って・・アホかバカかと。

田舎暮らしで自宅にビデオデッキすらない私は「ほぼ詰んでる」状態だったんですね。そんな私は当時のアニメ誌の写真をすべてチェックしつつ、この曲を聴きながら、日々妄想に浸るだけでした。ああ、切なくも甘酸っぱい80年代、思い出の曲というわけです。

その後、私は親に内緒で、東京で憧れのバイク乗りになり、「背中ごしのセンチメンタル」を体験せんと街に繰り出すわけですが、そこにはセンチメンタルな体験など微塵もなく、「背中ごしにパトカーのパオパオ音」が聞こえるだけだったのはいうまでもありません。






お次はこちら。PC用の星空バージョンです。こちらに当て込むのは、もう中島みゆき様の「世情」一択。

星空
(こっちはPC版のヘッダーです。背景は星空。)

(世情のカバーの中では、この方が一番うまいと思います。)

この世情は1978年のアルバムの中に入っていた曲で、「保守と革新のせめぎ合い」の情景を歌ってるんですよね。

バイクというテクノロジーの世界でも、レトロとニューテクノロジーの2つの流れは常にせめぎ合っていて、古くさい空冷縦置V型OHVをいまだに搭載しているV7は間違いなく前者のバイクであり、ホンダのHAWK11は電スロや270°クランクの水冷パラツインという、現代の技術的なトレンドが惜しみなく盛り込まれているバイクです。

消費者っていうのは、この伝統的で保守的なものと、革新的なものの間で常に揺れ動いている存在なんです。

この歌はそのような、保守と革新の激しい対立を、切なさを感じさせるメロディーと共に、第三者的な目線で歌ってます。結局、人というものは保守であろうが革新であろうが、常に見えない何かに抵抗し、戦っているんですよね。そこら中で、いろんな喪失や苦しみ、悲しみが生まれているけど、世の中は、そこで生まれた傷に、嘘という包帯を当てながら取り繕っている。しかし、その対立の中から、あらゆるものが生み出されていくわけですから、それは避けて通れない現実でもある。

みゆき様は、保守にも革新にも、傷に包帯を当てるような嘘にも、それを見破ろうとする学者にも、なんらの思いを寄せることなく、淡々と現実だけを歌う。この観察者的な無情感が、浮き草のようなノンポリの私によく刺さるんです。

V7の空冷縦Vもやがては消えゆく定めで、いつまで生産されるかわからない存在ですが、私はそういう喪失に対して抵抗することもないし、新しい技術を否定することもありません。諦念というか、疲れちゃったんですよね。今の私は、時代の大きな流れというのは、もはや必然であり、それをナントカしようとするのではなく、その中で「自分にとってのベストな選択とは何か?」を考えていくというスタンスをとっています。

この世情という歌の中には、旧きもの、新しきもののそれぞれについて「変わらない夢」を求め続ける人達の姿があります。私も昔はそういう「変わらない夢」を求める立場にいた気がする。でも、どだい「変わらないもの」などこの世のどこにもないんですよ。だから、それを頑なに社会に求め続け、声を張り上げて、体を張っている頑固者達は、いつも損をすることになる。

変わらないものを夢見ても、時代を止めたり、自由に進めたりすることなどできないんです。外の世界に変わらないものがない以上、「変わらない夢」は自分自身 の中に見るしかないんだと思う。

以前ブログで、ファッション(社会性)とスタイル(個性)について書きましたが、それは明確に分けるべきだと思うんです。世情は世情、自分は自分。自分と社会との関係性はどんどん変化していったとしても、自分のスタイルや選択は変えないでいることができる。それはその人の個性であり、意志だからです。社会をどうこうしようという頑固者になるのではなく、それを冷静に観察しながら、その中で自分を持ち続け、自分らしくあるには?ってことを考えた方が、よっぽど健全なんですよね。

ネット社会になり、この世の主張は先鋭化していくばかりですが、私はある時期から、この歌の「ただ静かに観察している」という在り方に共感してるんです。とかく、今の世の中は、シュプレヒコールが多すぎる。そう思うと、あの当時から、世の中はそんなに変わっていないんですよ。そんなだから、この曲を今でもしつこく聞いてるんだろうなって思います(笑)





・・・ということで、秋のヘッダーをネタに一本書いてみました。今後もボツボツと書いていきたいと思いますので、2024年の秋も、へっちまんのモーターサイコルを宜しくお願い申し上げます。




(なんか最後はしんみりとしたテキストになっちゃいましたんで、私がしんどいときに見て、元気を出している動画を貼っておきます。とにかくうるさいのでイヤホンでお聞き下さいね。)
(この動画見ると、「Zガンダムって、カミーユがわめいてるだけだったんだな・・」ってのがよくわかります(笑))