もう今年はあと一日を残すのみだ。抜けるような晴天、吹き抜けていくのは師走の凜とした風。いつもの海沿いのコーヒースポットにバイクを止める。チェアワンを組み立て、コーヒーセットを取り出し、湯を沸かすべく、ガソリンストーブをプレヒートした。

DSC_3235(30日は走り納め。いや~、最高の一日でした。)

男は水平線を眺めながら一年を振り返る。そして思う。「激動していた・・」と。長いバイク人生の中でも特別な一年が終わろうとしている。その特別は「鷹11号」がもたらした。和文にすると、まるで「あずさ2号」だ。無理矢理のハードボイルド文体がマヌケさを助長している。だが、あえて無視する。

今年一体何があったのか?そう・・まず事故があった。そして死神様御一行が登場し、奥能登での地獄巡りだ。時系列を短くしすぎて、臨死体験のようになった。が、それは実際、臨死体験くらいの希有な経験だった。

死神様御一行とは死神博士、耳変態氏をはじめとする鷹11号の開発責任者達だ。あまりにも失礼な呼び名だが、本人達が自らそれを名乗りはじめているので、もはや男にはなすすべがない。

能登巡りの初日の夜、そこには対話があった。酒という力水もあった。時間は無制限だった。作った方も真剣なら、身銭を切った方も真剣だ。そこに存在したのは、技術論ではなく、もの作りに対する責任論だった。バイクとは責任が固まったものだった。それ以降、男のバイクを見る目が少し変わった。

男が鷹11号を選んだ理由。それは長年バイクに乗ってきた男にとって、未知と個性の固まりだったからだ。突き詰めると、バイクを見て「欲しい。乗りたい。」と強烈に感じたという以外にない。そのバイクには確固としたスタイルがあった。

もの選びにおいて性能やデザインは重要である。しかし、消費財である以上、必ず一定期間で消費されていく。高価、安価に関わりなく、モノに依存して見る夢は、どんな夢でも必ず醒める。実際、レプリカブームもネイキッドブームも終わった。同様に、アドベンチャーブームもいつか終わるだろう。

この世の多くの人々がモノに対して「特別な価値」を求めている。メディアも「一生もの」「いつかは〇〇」などと、長い時間軸を前提に高価格の正当化を狙う。しかし、男が大量に浪費し、手に入れたものの中に、それ単体で永遠や普遍性を実現できたものなどなかった。なぜならどんなものでも、慣れ、やがて飽きたからだ。人はどんなものにも慣れ、特別ではなくなるようにできている。ゴールドウィングの車重と巨大さがやがて普通になってしまうように・・。

慣れはやがて飽きに変わり、欲望は新しいものに向かう。若い頃の男の消費は「使い」「楽しみ」「飽きたら売る」という単純なサイクルで成り立っていた。情報に流され消費社会にどっぷり浸かれば、どんなに思い入れを持って買ったものも、社会や時代の流れとともに、やがて風化し、色褪せていく。高額な商品を早いサイクルで回すことが大量消費社会の収益最大化の源だからだ。陳腐化こそが消費を回す。

「Fashion fades, only style remains the same」(ファッションはやがて消え、スタイルだけが残る)

これはココ・シャネルの言葉である。ファッションは社会性であり、スタイルとは人が持つ個性であり生き方だ。流行は社会の流れとともに移ろい消えるが、人の生き方や個性は消えることはない。

「社会性や流行」「個人のスタイル」、どちらを重視した選択をするかべきか?それは消費者の自由だ。しかし、この二つの選択は混同することなく、明確に分けて行う必要があるだろう。混同すると消費は混沌とし、自分の中の価値観と社会や業界が提案している価値観の違いすら、やがてわからなくなる。

地位やステイタスなどの社会性、人気度、下取り価格、知識などの流行や情報に重きを置いて選ぶのも悪くはない。以前の男の選択はそれに近かった。人の欲しいものを持っているという優越感があった。満足も簡単に得られた。あまり失敗することもなく、売るときも高値がついた。しかし、男のスタイルはどこにもなかった。選んでいるようで、選ばされているだけであり、そうやって選択したものはどんな高額なものでも、ある一定期間で必ず飽き、高額なものほど持っているのが負担になった。人気とは売るときの保険だ。人が何を好むのかが価格になったものだ。その保険を重視すると、自分の好きなものを感知するアンテナは確実に落ちる。

長い付き合いを望むのなら、社会性を徹底して排除し、個性に従い、人からどう言われようと自らを信じて、全人格をかけて好きなものを選択すべきなのだ。うまくハマれば「飽きる」の向こうにある「馴染む」という時間軸とその人だけのスタイルを得られるだろう。それは決して永遠ではない。しかし、それまでより少し長い関係性だ。当然、ピントを外してしまった失敗も数限りなくある。人からの評価もない。売るときも二束三文だ。しかし、自らが全責任を負って選択をすることで、失敗したとしても、好きなものを見分けるアンテナの感度は確実に上がる。価値は自分自身で見いだすというスタンスも明確になり、他者依存から抜け出せる。

結局のところ消費には、ココ・シャネルが提示したように、ファッションとスタイル、その2択しかない。そして選ぶ側からするとそれは正反対の価値観なのである。どちらが良いというものではない。消費選択は限りなく自由なのだ。

消費財の中には最高も永遠もない。ミもフタもないが厳然たる事実である。はるか高みに、作り手の情念を傾けた芸術品や工芸品があるからだ。人が情熱を捧げた工芸品は、時を経過しても色褪せることはない。しかし、それは大量生産、大量消費を前提とする市販品の世界には望むべくもないものである。

消費財に決して消えない価値があると感じるときは、乗り手が特別な経験と紐付けたり、思い出とつなぎあわせたり、後付けで価値を付与していった結果であり、最初から備わっていたものではない。そしてその器になるものは大概その人の考え方やスタイルと結びついている。だから「ものと使い方を見れば人がわかる」と言われるのだ。

消費は金を飲み込む巨大な怪物のようなものだ。高額化が進み、それに連れてマーケティングも派手になった。一部の旧車はプレミア価格で射幸心を煽っている。ネットは個人の選択を都合良く誘導しようとする甘い情報に満ちていて、うっとうしいことこの上ない。しかし、そんな状況を見るにつけ「バイクブームも長くはないな」と思う。短期利益に毒された業界はファッション色が強くなる。バイクは全ての人が必要とするようなものではない。ブームという祭りが終わると、熱も冷め、多くの人が去るだろう。そして、ファッションライクなバイクは消え去り、揺り戻しでスタイルとしてのバイクだけが残っていく。祭りの後はどこの業界もそのようなものだ。消費業界とは長い目で見ると一定のサイクルの繰り返しなのだから。

寒風に耐え、そんなことを考えていると、スマートフォンが揺れた。今日は息子の提案で一家で焼き肉の食べ放題へ行くとのことだ。食べ放題は戦いだ。求められるのはストロングスタイルだ。男はきびすを返し、力強く歩き出した。そしてゆっくりと目を閉じ、静かに口ずさむ。そう男の戦いのテーマ。

「ヨーデル食べ放題」を・・・。


(こちら焼き肉のために生まれた聖歌。焼き肉を食べるときには必ずこれを聞いて気合いを入れます。)



ということで、年末滑り込みですが、今年最後のブログです。皆さん今年一年、ダラダラと長いテキストにお付き合い頂いて、本当にありがとうございました。



最後に私も格言を・・

きんつば嬢のみ2+1