今回はダイナの車検についての顛末記の後編、最終回になります。今年は話題性のあったMoto GuzziやHAWK11の影に隠れてあまり目立たなかったダイナですが、年末は当ブログをほぼ独り占め状態という非常に贅沢なことになりました。

結論から申しますと、今回の車検で、いろいろと問題が出ていたダイナは完全に復調しました。車検後、エンジンマウントを馴染ませるために数回の慣熟走行を経て、走行距離も今年の目標であった77777㎞に到達しております。

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(本年度の目標だった77777㎞に到達したマイダイナ。これで気持ちよく年が越せる。)

車検のトータル金額は46万3千円でした。うちパーツ代は32万円。作業工賃は車検整備込みで11万円ですね。あとは車検諸費用ってやつです。いろいろ高額にはなりましたが、ずっと気がかりだった部分を一気にオーバーホール&交換したことによって、老朽化した建物に耐震補強工事を施したかのように気分的にはスッキリいたしました。

今回の車検ではクラッチワイヤー・アクセルワイヤーの交換、BCM交換、前後ブレーキのオーバーホール、エンジンマウントの交換を行ったわけですけど、前者は予防的なもの、後者は実際に機械的なトラブルが生じたものでした。今回の車検に思うところはいろいろあるのですが、まずは整備後のダイナの印象についてざっくり触れたいと思います。

ガチガチになって、引きしろがなくなっていたフロントブレーキは、オーバーホールにより非常にしなやかになり、クルーザーらしい「絞って効かせる」ブレーキタッチが復活いたしました。意外だったのはリアのタッチもメチャクチャ変わったこと。リアブレーキはホワイツの底が固いゴリゴリのブーツで踏みつけていたんで、あんまり気にしていなかったんですけど、オーバーホール後はリアブレーキの踏み加減も非常にしなやかになってました。どうやらリアのピストンシールも長期使用でご臨終になってたみたいです。

次はアクセルワイヤー・クラッチワイヤー。こちらは伸びきっているだけではなく、より込んだワイヤーが曲げ部分で何本か断線してました。これも11年間よく粘ってくれましたが、そろそろ替え時だったなって感じです。

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(もの凄く丈夫そうなアクセルワイヤー。曲げ部分が切れてるのがお分かりになるでしょうか?タイコの近辺はテンションが掛かるので、10年くらいを目安に交換した方がいいかもです。)

また、BCM交換によって、死んでいたウインカーのオートキャンセル機能も蘇り、バンク角に対してとってもセンシティブに気持ちよく反応するようになりました。また、追加機能としてついてきたキーレスエントリーにより、電子キーをポケットに入れてるだけでエンジンがかけられるようになり、高級バイク感が増しました(笑)。ちなみに、それまでキーをひねって行っていたイグニッションのオンオフはキルスイッチで行う仕様となっています。盗難防止装置もオマケでついており、バイク小屋でキーを持たずにバイクを動かすと毎回毎回ハザードをパチンコ台のように光らせる派手な演出(サイレンをつけてないので無音です。)をしてくれます。

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(こちら、おニューの電子キー。まさか購入11年目にして、こんなグレードアップがなされるとは、この海のリハクをもってしても・・)

しかし、なんといっても今回の整備でのメインを飾るのは、エンジンマウントでしょう。交換後は「やっぱりハーレーはエンジンだなぁ・・」としみじみ再認識した次第。

大排気量Vツインの荒々しい振動を気持ちよい鼓動に変換するという点で、ハーレーはバイク業界屈指の料理人であり、その味付けの独特さとノウハウがブランドを支えているところがあるわけですけど、1600ccクラスのエンジンを搭載するTC96ダイナ系にあっては、その味つけの重要な部分をエンジンマウントが担ってます。

ソフテイル系やツーリング系はエンジンをリジッドに搭載し、エンジン内部のバランサーで振動を調整してますが、ダイナは巨乳アイドルのおっぱいのように揺れまくるエンジンを前後のラバーマウントでもにゅっと挟むことによって心地よさを演出するというエロい手法。マウント方法からして、男の夢を地でいっているわけですよ。

もうね。アイドリングから、エンジンがゆっさゆっさ揺れてて、「オイオイ、ここにお尻を乗せるなんて・・ここが・・桃源郷・・か・・?」と男心を大いにくすぐってくれる。そこにあるのはドラクエでみんなが憧れた「ぱふぱふな世界」といっていいかもしれない。

そうはいっても、機械にとっては振動は本来は歓迎すべきものではないのも事実。そもそも、ブルブル揺れまくってる乗り物なんて、単気筒や2気筒のバイク以外そうそうありません。それ以外でやたらブルブルしてるのは「壊れかけのポンコツ」「爆発寸前の悪役メカ」くらい。

つまりダイナ系って一つ間違えればポンコツバイクと紙一重で、振動調節のカナメであるエンジンマウントが機能しなくなった車両など「ボヤッキーが誤って自爆スイッチを押したドロンボーメカ」みたいなもんなんですよ。

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(7万㎞走破後のエンジンマウント。劣化も一定レベルを超えると、その振動はドクロベエ様の声が聞こえるレベルになる。)

ちなみに、今回交換したエンジンマウントの見た目は上の写真の通り。非常に大きく分厚いゴムパーツを金属ステーで挟んだものです。11年7万㎞の酷使に耐えたため、ヘタってカチッとした形状からグズっとした感じになってますし、一部根っこの方に裂けたような亀裂も見えます。こうなると、マウントがエンジンの振動を吸収しきれず、不安定な揺れ方になってくる。ある程度の雑味は、「フフ・・それが味なのさ」っていえるのかもしれないけど、それも限度を超えると「ポンコツ感あふれるガタピシ」でしかない。

当然走行フィールもガタ落ちで、やむなく交換ということにあいなったわけですけど、エンジンマウントを交換した当初は「こんなもんかなぁ・・」って感想でした。エンジンの過剰な振れ感は収まりましたが、今度はフレームに硬質な振動が伝わるようになり、振れ方にイマイチしなやかさがなかった。でも、100㎞走ったあたりから振動特性がグンと良くなってきて、200㎞くらいで、緩すぎず堅すぎずのとても気持ちいい按配に収まってきました。走っていても「これだよ・・これがハーレーだよぉ・・」って納得のいくレベルの心地よさになったし、振動の吸収能力も上がってるから、気がつくといつもより一速下のギアで500回転くらい上を使って走ってたりする。もうね。締まったキビキビ感に溢れてて「若々しく、元気になったな~」って思わず呟いちゃうくらい。

またマウントがしっかりしたことによって、もう一つ気づいたことがありました。それは「ダイナのエンジンの変わりよう」です。新車時は結構カドがあって男らしく回ってた記憶があるんですが、新品のマウントで、今のVツインを挟んでみたら、「これ・・驚くほどスムースかつ滑らかになってね・・?」って感じたわけなんです。それまではエンジンの変化をあまり意識することはなかったんですが、エンジンマウントを新品にしたことにより、新車の頃と比較できるようになったんですね。

そう、11年の時と7万㎞という距離を経たダイナのTC96は、余計なフリクションが奇麗に取れて、まるでミルウォーキー・エイトのような優しくも力強く滑らかなエンジンフィールに変わっていたんです。

海沿いをダイナに任せてボーッと走っていると、煽動部がしっかり馴染んだフィーリングにダイナと過ごした長い時間を感じ、ちょっとばかしおセンチな思い出に浸ったりする。

思い起こせば、ダイナに乗り始めた頃に比べると「自分も随分と丸くなったな~」と思う。ダイナを買った頃の私は、新品のエンジンと同じように、かなりカドが立ってて、お世辞にも模範的なライダーとはいえませんでした。仕事でもなんでも「競争社会で戦って生き残るにはがむしゃらな力業が必要なのである」っていうメンタルが前に出て、「バイクは熱く尖ってないとだめなのじゃ」「生きるとは戦いなのじゃ」と思っていた。まぁカタナを駆る有名なお方が出てくる某漫画の影響も大きかったんだと思います。今はその首長動物をネタにイジりまくってますけど、昔の自分にとっては、それはバイブル的なナニかでした。バイクをマジンガーZに乗るような気分で乗っていたから、かかり気味の競走馬みたいに、常に切羽詰まってジタバタしてたんですよね。そういう時って、何かに追われているような余裕のない走りしかできなかった。

そんな自分に煮詰まり感を覚えているときに、私はダイナに出会ったんです。ハーレーに初めて乗った感想を一言で表現すると、「自らの世界観を頑なに譲らないバイク」でした。乗り手は乗り手、バイクはバイクと常に一線を引いてきて、ハーレーの価値観に沿わない走りは断固拒否。若かりし頃の私だったら「ナニコレ?なんなの?言うこと聞かないんだけど?」と叩き売っていたと思うんですけど、当時の私は自分不信に陥っていたから、私の乗り方を拒絶するハーレーの頑固さが逆にハマったんだと思います。

そんな融通の利かないバイクと一緒に走るようになって、私のバイクに対する接し方も少しずつ変わっていきました。それまでの私にとって、バイクは「自分の主張や生き様を投影するもの」であり、自分の分身みたいなものでした。しかし、ダイナに乗ってからは「自分とは別個に存在する相棒のようなもの」に変化して行ったんです。自分の考えをバイクに押しつけ、何とか使役しようとしていた考えを改め、バイクの言うことも少しばかり聞いてあげようじゃないか。というスタンスに少しずつ変わっていったんですよね。

人によっては、それは積極性を失い退化したと評価されるのかもしれませんが、私にとっては、その変化はそう悪いものではなかった気がする。以前のように自分基準にあわないものを斬って捨てるのではなく、バイクが乗り手に伝えようとしているものを頑張って理解しようと思うようになったし、バイクに自分のワガママを押しつけなくなった結果、転倒することがほぼなくなりました。そして今や、完全にバイクにお任せの波乗りみたいな乗り方になってしまっている。

ダイナのエンジンが距離を走る中で丸くなっていったように、私もダイナと過ごした14年で少しずつ嗜好が変わり、丸くなっていったわけで、そう考えるとダイナと私は「なかなかの相互依存関係なのかもしれないな~」と思ったりする。

そんなダイナですが、購入当初はマジでどうしようもないバイクで、「あ゛~、やっぱアメリカの広大な国土を走るバイクってこうだよね~。日本に向いてないよね~。」って唸ってしまうくらいのダメさ加減でした。そのダメ部分を、長い時間と試行錯誤で一つずつ潰し、改良、カスタムして、自分の走る環境にあわせて少しずつ手を入れ適正化してきました。それは環境を無視し、自己中心的な走りをしていた私が、環境を意識してものを考えるようになった過程そのものでした。そういう意味ではハーレーという異文化は、私にとって「プラグマティズム(実用主義)の教科書」みたいなものだったのかもしれない。

3年くらい前、「バイクの耐久性に関する一考察」(クリックで飛びます)というブログの中で、

「とにかく「こいつといけるところまで!」とオーナーに覚悟させるようなバイクに出会えるまでの旅路は長い。その旅路の終着点に到達し、自分が真に維持しようと思えるバイクに出会ったとき、初めてバイクの耐久性が問題になるわけですが、そんなバイクに出会えたという最高の幸せを前にして、耐久性や維持費なんてもうどうでもいいんじゃないの?と私は思う。」

などと偉そうなことを書いたんですけど、いまやそのポジションにダイナがどっかりと収まっていて、なんとも言えない気分になる。実際、今回の車検で維持に大枚をかけたし、すでに欠品パーツも出てきている中、耐久性や維持費を語るお年頃になったことも間違いない。でも、いくら心の中を掘っていっても、私が期待していたような強い感情はまったく出てこないんですよ。「なんとなく淡々と毎日を積み重ねて今に至る」って感じで、ブログに書いたような「最高の幸せ」があるかというと、そういう感覚はまったくないし、さりとて、ダイナが維持に値するほどの突出したナニかを持っているのかっていうと、多分それもない。どこにでもある、やたら金を食うだけの汎用バイクなんです。

ただ、だからといってこのおねだりマシンを手放そうという気にもならないんですよねぇ・・。実際「私のバイクライフからダイナを引き算する」ことを考えてみると、腕組みをして首をかしげつつ数分間考えたあげく、「・・うーーん・・ないわー・・」って結論づけちゃうような・・そんな得体の知れない生ぬるい肯定感がある。テキスト打っていても、いつもみたいにガーーっと盛り上がることもなく、心が静かで淡々としてるんですね。これが長く維持してきたバイクへの感情だとすると、私が頭の中で思い描いていた理想と大分違う気がするけど、「蓋を開けてみれば、案外こんなものなのかもしれない」って納得感もあるんです。

私はエンジンの存在感を飾らずストレートにぶつけてくるハーレーが好きで、ずっと手元に置いておきたいと思ってるし、いまお付き合いさせて頂いているハーレーディーラーとの関係も末永く続けていきたい。でも、その一方で新車に買い換える気はあまり起きないんですよ。新車が気に食わないってわけではなく、考えれば考えるほど、「今あるダイナと同じ状態にまでもってくる労力と情熱が大変すぎて無理ぃ・・」って思っちゃう。

それは青春時代にどこかで聞いた「流した汗と積み上げた時間は金では買えない」っていう、臭いセリフそのまんま。若い頃はまったくといっていいほど刺さらなかった言葉がオッサンになってから身に染みちゃうって、一体どういうことなのか?

おそらく、若い頃は「時間という可能性」「若さというエネルギー」がタップリありすぎて、その重要性がわかっていなかったんだと思う。実際、ものを評価するための評価軸も、経験も、心の余裕すら当時の私にはありませんでした。そんな時期には分不相応な夢や憧れが呪いの鎖のように自分を拘束していたけど、今は積み上げてきた長い時間によって生まれた関係性が緩く穏やかに自分を拘束する。

突き詰めていくと、長く維持するということは、結局は「対象との関係性に変化を求めていない」ということなのでしょう。今の私はダイナとの「ぬるま湯のような関係性」を維持にするために大枚を支払ってる気がする。そこにあるのは関係性の価値であり、多くの人達が重視しているような経済的な価値ではないのです。

このどうにも伝えづらく、盛り上がらない感情こそが、長期的なバイク維持の正体なのだとすると、「安定というのものを求めてなかった若い頃に、バイクを長く維持することなんて、どだい無理だったよなぁ・・」と思う。バイクを維持できるか維持できないかは、乗り手の心の問題なのだという考え方は以前から変わっていませんが、乗り手が苦労して守りたいものの正体はバイクそのものというより、「バイクとの関係性や、バイクとの変わらぬ日常なのではないか?」っていう気がしてるんですよね。

私の生き血をタップリ吸って、意気軒昂なダイナをジト目で眺めつつ、この見果てぬ命題に自分なりの結論が出たかのような、出ないような、そんな気がしている今日この頃なのであります。



オマケ漫画「超高齢級テレパシー」
マンネリ2
(人の嗜好や好みってどんどん変わるから、上がりバイクって蜃気楼を追うようなもので、捉えどころがありません。その一方で、ある程度年を取ると、日常ってあまり変わらないんですよね。その変わらない日常にうまくハマったバイクが、長くつきあえるバイクになるんじゃないか?そんな気がしてます。)