ハーレーって語る人が多いですよね。雑誌なんかでも良くハーレーオーナーが取材受けてガッツリ語ってるページがありますね。今回のネタは「やめられない止まらない自分語り」についてです。



私が書いてるこのブログも、一種の自分語りなんですが、ブログの美点は、私のくだらない語りが強制発信されないこと。ブログがなぜオワコンと呼ばれているかというと、SNSに比べて「圧倒的に発信力がない」からです。アップしても誰かが見つけてくれるのをひたすら待つしかないんですね。

でも私はそれでいいと思うんですよ。自分語りって部屋の片隅でヒザ抱えながらブツブツ言ってる独り言のウェブ版なんだから、本来は人にお見せするようなものではないんです。前にハーレー乗りは嫌われる系のブログ(←クリックで飛びます)で、「罪人には罪人の居場所がある」なんて書きましたが、これは自分語りにも言えることで、自分語りにもそれなりの居場所や発信の在り方があると思うんです。

SNSってニュータイプのテレパシーみたいなもんですから、拡散力がめちゃ強い。ガンダムユニコーンで死にゆくマリーダさんが「いまのお前たちには見えないものが、私には見える。ここでは時間さえ輝いて見える。どんな絶望の中にも、希望は生まれる。」と泣ける言葉でネール・アーガマのクルーに語りかけていましたが、こういう素敵な言葉なら拡散しても多くの感動と共感を呼ぶことができる。一方で、私の発信は「マリーダさんの巨乳揉みたい」ってレベルのどうにもならんものだから、強制的に他人に送りつけたら炎上確実なわけですよ。しかも「お前アホか!!」「ここでそれなのか!」「えーい!死ね!くぬっくぬっ」っていうマリーダファンの怒りのレスでブーストされて拡散されるわけですから、これは大江戸大火災レベルの大惨事になる。

でもブログはこういうことが起きにくい。発信型コンテンツじゃないのでお友達との相互リンクでもなければ、もう完全なボッチ。でもボッチになればなるほど、制作者側の責任は極めて薄くなるんですね。だって「富士の樹海に迷い込んで発狂しても、土地所有者が責任を問われるわけじゃない。」基本的には勝手に迷い込んだ人の自己責任なんですよ。「いやいや検索で入ってきたんですけど!!」って言う人もいるかもしれないけど、検索順位決めてるのはグーグル先生で私じゃない。文句は判断を誤ったグーグル先生に言ってくれってことになる。

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(汚い文章に綺麗な桜。美麗写真で汚物に蓋をしようとするスケベ心が全開です。こちらはひとっ走りした先で撮影したもの。ソメイヨシノは数あれど、しだれ桜は珍しいですね。)

このように私からすれば自分語りの拡散は警戒すべき重要事案なんですが、ハーレー界隈ではこの自分語りを全国販売する商業誌にどしどし掲載してるんですよ。

バイク雑誌って専門誌ですから一般的にはレーサーや開発者やインストラクターなど、その道のプロが記事を書いて、有益な情報や知識を掲載しようとするのが普通。なぜなら有料で販売される雑誌は「支払う対価に見合う内容を提供しなくては部数が伸びない」という大原則があるからです。

公共性のある有名人(たとえば原田哲也さんとか)の自分語りなら価値あるかもしれないけど、公共性のない一般人の自分語りなんて、道の駅にいるオジサンが語ってるのと同じですよ。ハーレー界隈はその点、ものすごく寛容で「いやもう、これほとんど素人の人物紹介だよね?」っていう記事がカラー2ページぶち抜きとか平気で出てくる。これは専門誌の誌面作りとして非常に珍しいことなんです。

ハーレーが重視してるのはライディングスキルじゃなくって、ライフスタイルだからそういうことが許容されてるところもあるでしょう。これがライディングスキルだったら一般人の書いた記事など見向きもされないけど、重視されてるのが「ハーレーとのつきあい方」とか「生きる上でのスタンス」みたいなところがあるから、取材対象はハーレーと深いお付き合いをしてる一般人でいい。

ハーレーを楽しんでいる人は、立派なバイカー(私はこの言葉もよくわかんないんですが・・)になりたいわけだから、自分のスタイル確立の参考になるような人たちの記事が刺さるのかもしれない。確かにアパレル雑誌などでは街角のオシャレさんのコーナーや読者モデルもそれなりに人気がある。プロを使ったものより、生活感や目線が同じ等身大の人達の着こなしの方が参考になるんですよね。

しかも、一般人にフォーカスするなら、取材対象は無限沸き。ネタがなくなることもない。その点では一部のハーレー雑誌は「バイクに依存しないバイク雑誌」として非常に画期的だと思うんです。

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(私のどうにもならん自分語りはバイク側も迷惑しているようです。一番良いのは語ってる側も気持ちよくて、受け手も楽しい自分語りなんですが、そういう語りはテキスト書きの永遠のテーマってくらい難しいんです。)

しかし一方でそのような記事を「ある種のイミテーション」として冷静にジト目で見てる自分もいる。この手の自分語りって、あまりにも目につくようだと違和感だけが募ってくる。だってそうでしょ?

「一般人の自分語り掲載しても発行部数が増えるはずない」んだから。

雑誌ってのは1ページあたり「幾ら稼いで貰わなくてはならない」っていう売上単価があるはずで、質の良いカラーページなんかを採用すると、そのページ単価は相当なものになる。多くのバイク雑誌は広告まみれになってますが、それは広告を沢山入れて収入稼がないと雑誌が維持できないからなんです。広告を排除すればスポンサーに配慮せず好きな誌面を作れますが、「ゲッカンタカハシゴー」みたいに5号で廃刊になるわけです。私はあの雑誌結構好きで買ってたんですけど、「うわー青臭い。これ絶対に廃刊になるよね」と思ってたら、ホント5号で廃刊になった。

広告をまったく入れないと「利益を出すには販売部数を出さなきゃならない」という重い十字架を背負うんですよ。しかも、新刊なんてどれだけ売れるかまったく読めないから、印刷部数はギャンブル、金回しはドンブリにならざるを得ない。前の号が売れなければ次の号の取材費の目途が立たないって単なる自転車操業ですよ。

経営者に必要とされてるのは良い物を作ることじゃなくてマネジメントなんです。「安定したマネジメントを成立させるために、良い物を作る」わけで、「良いものを作ればマネジメントがついてくる」って考え方は理念ありきでコスト意識が欠如してるから商業ベースでは非常に危険。雑誌の記事は個人ブログや同人誌じゃありませんから、コストマネジメントを冷徹にやらないと持続できない構造になってる。だから雑誌を存続するにあたり、資金繰りに汲々としたくないなら、毎号一定数を確実に売るか、広告を取るしかないんですよね。

「それじゃページコストだけ食って売上増に繋がらない素人の自分語りなんて商業誌では掲載不可能なんじゃない?」って思った方。そうですよ。その通りです。じゃあそれが成立する裏ってどうなってるのか?おそらく、その多くが協賛型の記事になってると思うんですよ。「あなたの取材記事書くんで、うちの雑誌に〇〇円の協賛金を出してくれませんか?」とか、「アナタのお店と貴方自身を紹介するんで、掲載号を1000冊ほどまとめ買いお願いしたいんです」とかですね。いずれにせよ、そんな形をとらないとページあたり単価をクリアできないはずなんです。だから、掲載されてるのは必然的にペンションオーナーとか小物作り職人とか、カスタムショップのオーナーとかが多くなるんですよ。間接的に自分の商売の宣伝にもなるし、協賛金が経費で落ちますから、協賛企画に乗っかりやすいんですよね。一見すると銭金から最も遠く見える自分語りの取材ページが裏では重要な収益手段の一部になってるってわけです。

別業界の話をしますと、専門誌でタマに愛好家特集みたいなのやるんですよね。で、その愛好家ってまぁ凄いコレクター達なんですけど、雑誌に常時大型広告を出してくれてる大手ショップに推薦の人選枠があるんですね。ショップは売上げに貢献してくれてる常連客を推薦し、雑誌はその人達の日常を記事にする。記事になった顧客のショップに対する忠誠度は上がり、顧客がショップに落とした利益の一部が雑誌社に広告収入として環流する。顧客もショップも雑誌社もウィン・ウィン・ウィンの完全収益癒着構造なんですね。ただ、そこには悲しいかな読者のウィンはまったくないんで、私はその雑誌を購入するのをやめました。

私はショップが押し込んだ人達が「愛好家じゃない」なんて言わないけど、商売人が選んだ愛好家の語りや私生活をなんで金払って見せられなきゃならんのか?読んでたって面白くもクソもないものを購読するいわれはない。

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(春の海。石川県は周囲は海に囲まれ、中心部に白山連峰がありますので、15分走れば海、15分走れば山というバイク乗りにはとてもありがたい環境です。それはそうと、私のダイナって横から見ると新型のナイトスターに似てないですか?)

ただね。これは雑誌社に文句いってもしょうがないんですよ。だって「そもそも商売ってのはそういうもの」なんです。営利企業は利益を出すのが正義。だから利益を出せる仕組みを必死で作る。ページを買う人間がいるのなら、それを切り売りするのは至極当然。ページの切り売りが読者にバレないように巧妙に誌面作りをするのが編集者の腕の見せ所なんです。

ただ、雑誌社やページを買った人達にハッキリ言いたいのは、ワッショイ、ヨイショ型の自分語り記事は、発信側はともかく、受け手側はまったく面白くないってことです。だってだれも人の自慢話や幸福話を強制的に聞かされたり、金払って聞きたくないんだから。にもかかわらず人はなぜ、そうまでして自分語りをしたがるのか?それは

「自分語りはとっても気持ちがいいからです♡」

人は自分を語ってるときに脳から快楽物質が出るらしいんですよね。だから語ってる本人は実に気持ちいい。雑誌に掲載されれば多くの人が見てくれるから、承認欲求が満たされて、さらに気持ちいい。でもそれを読まされる側には、そんな快楽物質は一切出てないんだから、そのギャップが凄いんですよ。

資本主義は「金で欲を満たす世界」なんだから、金払えばやりたい放題なんだけれども、自分の欲望は閉じた世界でベタに下品に小汚く満たした方がいいんじゃないか?と考えてます。ブランドものを買うのも、髙いバイクを買うのも、私がチヤホヤしてくれるオネーちゃんのいる店行くのも、下らないブログ書いてるのも根っこは気持ちよくなりたいからなんですけど、私の小汚い欲望が公共の場に拡散しないようエチケットには気を遣ってるつもりなんです。

雑誌の自分語り記事は凄く綺麗だけど、美しく装飾された「欲望という名の電車」が目の前に停車すると、私はそれを徹底的に破壊したくなる。欲って巧妙に形を整え綺麗に見せようとするほどイミテーションみたいになる。役者さんやアイドルはいいんですよ。芸能自体がよくできた嘘を見せる虚構の世界なんだから。でも一般人が雑誌のライターに金払って作ってもらった自分像なんてイミテーション・ゴールドの最たるものなんじゃないかと思うんですよね。それは受け手のプラス評価にならないばかりか、後日自分を縛る足かせになりかねない。

自分語りってのは、本質はキモくてドロドロしたものなんですよ。それを綺麗に取り繕うほど嘘くさくなる。それを理解してるか理解してないかで、同じ自分語りをしても、提示の仕方は大きく異なってくるんです。いずれにせよ、自分語りを人にお聞かせするときは慎重にってことですよね。







(シン・ウルトラマン特報、サイッコーに面白そう。「特命全権大使・外星人第0号・メフィラス」の名刺がマジ笑える。お前が営業するなといいたい(笑)。メフィラス星人じゃないですけど、無償で欲を満たしてくれるような慈善事業はビジネスの世界にはない。そんな提示をされたときには、最後に「地球あげます」とか「自分あげます」とか「お金あげます」と言わされないよう警戒する必要がありますね。)