ハーレーといえばアウトローと自由のイメージですね。今回はこの点について、私の思いを綴ったブログになっております。ちょっと長いですが、テーマが少々重いんでご勘弁くださいね。

ちなみにアウトローをウィキペディアで検索するとこう書いてある。

「アウトロー宣告を受けると「市民としての死」(civil death, 市民権剥奪)が科せられた。この宣告は社会的な死であり、あらゆる市民社会から排除され、如何なる者も彼に食事や隠れ処その他の援助を与えることが禁じられた。もし援助すれば couthutlaugh (=A person who harbored an outlaw)の罪に問われ援助者自身が宣告を受けるおそれがあった。支援した者が許されるにはアウトローを殺さなければならなかった。実際にアウトロー殺しは推奨され、「アウトローは市民社会を無視したので、社会もアウトローにいかなる義務を負わない」という論理で、殺しても殺人罪に問われることはなかった。彼らに市民権はなかったので訴えたり保護を求めることはできず、自らが法的責任を負った。」

いや、文章固すぎて頭に入ってきませんな。ただこれざっくり一行で言うと「アウトローは合法的に殺処分していい」存在だったってことですよね。害獣扱いです。まぁ法っていうのは国家とそこに帰属する人々との契約だから、「国家の定めた法に従わない人間は、国家による保護なぞ不要でしょ?邪魔でしょ?排除しましょ?殺しましょ?」ってことですよ。法による保護の対象になってないから殺人罪にも問われない。遙か昔は、法の足かせから逃れて自由になろうとすれば、死を覚悟しなくてはならなかったわけですね。

逆に解釈すれば「害獣として殺処分しなきゃいけないほどの最凶最悪の集団」がアウトローの本来的定義ということになるんでしょう。

アウトロー3
(今回はアウトローなダイナ嬢でお送り致します。決めセリフはダーティー・ハリーの名台詞をパクリました。)

アメリカでいう「アウトロー」もその定義を地でいくもので、もうめちゃくちゃな極悪武闘派集団。ヘルズ・エンジェルズ、モンゴルズ、アウトローズと有名どころはいろいろありますが、おしなべて組織の上部への絶対服従、徹底した帰属意識と献身性、鉄のような統制と残忍な攻撃性が特徴となっております。戦争で理不尽な殺戮を垣間見た兵士達が社会不適合になり、刹那的享楽の代名詞ともいえるバイクにのめり込んだあげく、結成されたクラブが軍隊類似の組織体系と特徴を持つのは必然だったのかもしれません。

戦争で酷使され、戻るべき社会から拒絶された一部の兵士達は、コカイン、恐喝、暴行、発砲、闘争、殺傷、なんでもありの無法集団となり、アメリカの国内に自らの生きる場所である「疑似戦闘領域」を作ったわけです。バイクは彼らが戦場で命を乗せて戦った戦車や戦闘機、戦闘艇の代わりだったのかもしれない。だからこそ彼らのバイクは純アメリカ製のインディアンやハーレーダビッドソンでなければならなかった。アメリカに戻っても彼らの戦争はまだ終わっておらず、自分たちを弾き出した社会に対して終わりなき抵抗と戦闘行動を続けたわけです。

なぜそんな反社会的なアウトローやヒッピーが文化として定着するに至ったのか?それは当時のアメリカ社会が「アウトローを容認せざるをえなかった」からではないでしょうか。いざ国を挙げての戦争になれば、それによる負荷で社会は大きく歪む。アメリカは元から人種差別という深い歪みをかかえていたわけですが、そこに景気の悪化や失業者の増加、物資の不足、物価の上昇などが重なり、歪みはますます大きくなって社会が悲鳴をあげはじめた。歪んだ社会を歪んだまま維持するために、不満分子を排除するのではなく一つの社会現象として容認し、居場所を与えたわけですね。

当然、戦争が終結しても、それらの歪みは簡単には収まるわけではない。収まるどころかより一層酷くなる。派兵が終われば、キラーマシンとして育成された兵士が大量にアメリカ国内に帰還する。しかし、戦争で疲弊した社会には彼らを受け入れる雇用がない。戦争がえりの無職者が世に溢れ、施政者に対する不満は渦を巻き、社会の低層に沈殿していく。そしてその数は1960年代から70年代にかけて、どんどん膨れ上がっていきます。戦場でのヒーローが故郷に還ればアウトローとは悲しい結末ですが、暴力とはえてしてそういうもの。外敵に向かえば勇敢な戦士、身内に向かえば極悪なる犯罪者。人の評価は見る視点によって180度変わってしまう。そして暴力にはその程度の価値しかない。

戦勝国となった第二次大戦はまだしも、ベトナム戦争はアメリカの実質的敗戦で、国威高揚もなく、勝利の喜びもなく、戦った兵士に一切の果実もなかった。それは大きな不満としてアメリカ国内に環流し、行き場のなくなった攻撃性を社会のマイノリティとして認容しなくては、社会全体が非常に危険な状況だったのではないかと推測されます。世界最強の軍事国家アメリカが内包する大きな歪み。それがアメリカの武装型バイククラブやヒッピー文化の根底にあると私は分析しています。
                                                                     
しかし、健全な社会がそれらの歪みを許容できるのも一定期間だけ。平和が長く続けば、やがて社会はそれらの暴力性を容認しなくなります。歪みはいつか必ず正されなければならない。

1980年代になるとこれらの極悪クラブ撲滅に州警察が本格的に動き出すようになり、年々その締め付けは厳しくなっていきます。そしてそれがさらに加速したのが2001年。

アメリカ同時多発テロによる貿易センタービルの本土攻撃以降、テロに対しヒステリックになったアメリカは、反社会的な勢力との関係性を企業に一切認めなくなりました。「アンダーグラウンドに流れた金は全て国家転覆に使われる」という前提があるからです。闇の勢力が本気で仕掛けてくるなら、表の世界から暗い部分を全て消し去り、闇の軍団の居場所を潰してしまおうというわけです。そんな流れの中で、アウトローイメージはハーレーにとって諸刃の剣になってしまったんです。

昔ながらのアウトローバイカー達は「自分たちこそがハーレーの真の支持者だ」と思ってるのかもしれないですが、肝心のハーレーからは、もはや厄介者扱いされている状況なんです。ウィリーGが「今のハーレーの顧客層は昔のハーレーの顧客層じゃない、これはハーレーの危機ちゃうの?」ってのたまっていたけど、ハーレーの現経営陣からすれば「なにいっちゃってんの?昔のマリファナ吸ってるようなガラの悪い顧客層を維持することこそ、ハーレーの真の危機でしょ?」って考えているんじゃないかと思う。

で、今のハーレーが何をやってるかというと、アウトローのイメージを希釈しようとしてるんですよ。アウトローを否定するのはハーレーの歴史の否定であり、歴史的なブランドを声高に唄うハーレーにそれはできない。しょうがないから、アウトローから負の要素を取り去って、自由や団結、仲間意識というプラスの部分だけを抽出してイメージ戦略をしていこうって考えたんですよね。違法マフラーを締め出してガラの悪い人達を排除しつつ、販売ではアウトロースタイルを押し出していく。それが現状のハーレーの戦略です。

結果、本来のアウトローはそのスタイルを真似た圧倒的多数の非アウトローに上書きされていくわけですよ。これは非常に巧妙な戦略で、1%が発信していた悪のイメージは、そのプラス面のみを取り入れた99%によってどんどん希釈されていった。当たり前ですが99%が1%に擬態するようになったら、1%ってもはやどこにも存在できないんですよ。

アウトロールックって、アウトロー達が「強い男」に見えるよう、長年にわたって磨き上げてきた姿です。だから見た瞬間カッコいいが確立されてるんですよね。彼らが半ヘル、半袖、サングラスなのは、あの格好でどんだけ飛ばせるかが「男を見せる」ってことだからだと思う。ハーレーみたいなスピードの出ないバイクで根性見せようとしたら、最後は裸ですよ。半ヘルに代表される脆弱な装備は「決して死を恐れない」という彼らのあり方を、そのまま表現したものなんだと思うんですよね。

で、私はというと、そんな固い芯はまったくございません。快楽主義で、超死にたくない。そんな私がアウトロースタイルなんてやれるわけないし、そもそも私にとってのアウトローはヘルズ・エンジェルズでもなければ、ピーター・フォンダでもない。私には幼少の頃から、「この御仁こそ真のアウトロー」と心に決めた人がいる。

それは誰かって?え?そんなの決まってるでしょ?

「ハーロック様ですぅ♡」

ハーロック
(ここでまさかのキャプテンハーロック。時間がなかったのでかなり雑。松本零士キャラは似る似ないより「らしい雰囲気」が出てるかどうかが大事なので一筋縄ではいかない。)


「ここまで引っ張ってきてそれかーーーい!!」って多くの人の絶叫が聞こえますね。「ざまぁみろですぅー!!」これまでのクソ真面目で長い前置きって、この一言がいいたいから綴ってきたわけですね。もうね。頭の悪さが天才級ですね!

あのですね。キャプテンハーロックは凄いんですよ。何が凄いかって、アニメ主題歌がす・べ・て名曲なんです。袖なしベストで看板背負わなくても、こっちは水木一郎が歌声で男を見せてくれますよ。男の美学は歳食うほど刺さる。私はオタ仲間とカラオケでアニソン縛りするときは、なにはなくとも、とりあえずハーロックです。選曲番号2850-02!

(以下全部YouTubeから引っ張ってきました。堕落し、価値すら失った人類。それを征服しようとするマゾーン。その宇宙艦隊の前にアルカディア号たった一隻で立ちはだかるハーロック。全ては亡き親友との約束を果たすため・・。もう設定からして男気が爆発してるでしょ?この曲は宇宙戦艦ヤマトと並ぶ、アニソン界の名曲中の名曲だと思う。)  
(TV版無限軌道SSXのエンディングテーマ。ハーロックのバラード。散っていった全てのバイク乗りにこの曲を捧げたい。)
(こちら映画版「わが青春のアルカディア」の主題歌。若き日のハーロックを彷彿とさせる名曲。)

そもそも、こちとら日本生まれの日本育ち。コテコテの水呑百姓の末裔ですよ。親の世代までモンペはいてたんです。物心ついたら漫画三昧。それがアメリカンでオシャレなアウトローになれるわけないだろと。ハーレーってスカルが定番ですが、私の中でドクロメカつったら、そりゃもう「アルカディア号」「ドロンボーメカ」「クロスボーンガンダム」のどれかしかない。

「それなら、お前はどー考えてもドロンボーメカの方だろ!!」ってツッコんでる方、真実は時に人を殺しますよ!んなこた私が一番わかってるんですよ!どーせ私はトンズラーの頭にボヤッキーの胴体つけたような、バカで非力なネタキャラですよ。ただ私にも生きる権利はあるんで、爆散するのが予定調和のドロンボーメカはつらすぎる。それって廃車路線確定でしょ?ぶっこけたらドクロ雲が上がるんでしょ?お願いだから人権をくれ!

まぁそんな私のアニメに浸食されたアウトロー観はともかくとして、ハーレー世界って私から見ると全然自由じゃないんです。

アウトローのバイククラブには守るべき鉄の掟があるんですが、法というルールに逆らいながら、自分たちのチームの掟は絶対なんですよ。破れば私刑が待っている。強固な掟に縛られてるのに何故自由なのか?そりゃ自分たちの作った掟は棚上げしてるからです。人の作った檻には入れないけど、自分達の作った檻には入れる。つまり彼らが求めているのは絶対的な自由じゃなくて社会や既存の枠組みからの自由なんです。

反体制として生きるのがアウトローの在り方で、自由の旗印は闘争のためのプロパガンダなんですね。でも、それって私の考える自由とかなり違うんですよ。だって私の求める自由って誰の干渉も受けないってことだから。

私が思うに、人は他者との関係では自由になることなんてできないんです。他者を尊重すればするほど、自分の自由は制限される。結局、自分自身の完全な自由を突き詰めた先にあるものって他者の排除なんですよ。集団の中で自由に振る舞うって、他人に少しだけ甘えたり許してもらうってことで、それを無理矢理やろうとするから「力と数で威圧して、文句いえなくしてしまえ!」っていう支配型独裁思想になっていくんです。

私はその逆で、「人の目から逃げ出せば自由になれるんじゃね?」って思ってる。私の自由って戦うことじゃない。逃げることなんです。法が人と人との関係性をルール化したものなら、関係性が極めて希薄になるところまで逃げ出しちゃえばいいんです。だれもいない山奥で多少羽目外しても迷惑を被る人は誰もいない。私はアウトローにはなれないし、なる気もないけど、田舎住まいでバイクという相棒があるから社会の外に逃げ出すことはいつでもできる。

私にとってバイクはアウトローになるためのアイテムじゃなくて、一人でローアウトするための箱舟なんです。逃げ出した先にあるひとときだけの自由な楽園。それが「我が白秋のアルカディア」なんですよね。