前回のダイナのブログで車検に関する一部始終を書きましたが、1ヶ月預けて車検が終わった後の感想は

「あるぅえー??こんな乗り味だったっけー」

って感じでした。まぁはっきりいってかなり変わったんですよね。タイヤの空気圧はきっちりあわせたし、サスのセッティングも再度合わせ直したんですけど、「こんな固かった?」って感じるくらいサスペンションが締まってます。オーリンズってノーマルサスより回復させたときとヘタったときの差がでかくってオバホの効果がわかりやすいサスです。それだけ繊細なんですよね。ちなみにノーマルのフロントフォークを定期的にオバホしてても、これほどの変化はありません。

今回の車検では前後サスのオーバーホールとフロントリアのブレーキパッド、ブレーキフルードの交換。前タイヤの交換をやっただけで、エンジンには手を入れてない。にもかかわらず、アクセルのツキやブレーキの効きが良くなった気がするんですよ。

このように感じるのは、おそらくサスペンションの減衰が回復したことが大きいんでしょう。今まではオーリンズサスの減衰が抜け気味で、アクセル開けても初期の駆動をサスが吸収しちゃってた。でもオーバーホールによってリアサスペンションの圧減衰が復活し、アクセル開けた初期段階から適度に踏ん張るようになり、キッチリ路面を掴むようになったんだと思います。その結果として、アクセルに対する車体の反応が良くなったと。ブレーキについても同様で、フロントサスの圧減衰の復活により、初期のストッピングパワーをサスの沈み込みに食われなくなったから、握り初めからグッと効くように感じるんだと思うんですね。

私がダイナに求める運動性としては、現状ではちょっとせわしない感じで、馴染んでくると妥当なところに落ち着いてくれるはずだよね。きっとそうなるよね・・・などとやきもきしてる次第です。                  

オバホで締まったサスに対して「コレじゃないんだよなぁ・・」って感想を抱きながら、「やっぱ私はダイナに求めるのは速さじゃないな・・」と改めて思う。

DSC_1292

結局のところ、公道バイクの性能なんて乗る人の好き好きだし、まったりでも過剰でもお好みでいいと思うんですが、それでも最低限「自分がバイクに何を求めるのか?」というコンセプトだけはちゃんと定める必要があると思うんです。

昔の私はコンセプトなんてロクに考えずバイクをイジってたから、最後はチューンの頭打ち&コレジャナイ状態になって
「とりあえずやるところなくなったから売る」みたいなことを繰り返してました。

カスタム雑誌でも「どういう意図でこうなったのかなぁ・・」とか「どこで何に使うんだろう・・」って思うような仕様になってるバイクって結構ある気がします。たまにZ1なんかに高性能パーツが山ほどついてる奴があるけど、旧車は枯れた風情を維持しつつ、オバホしながら乗ってた方がカッコいいと思うんですよね。だってノーマル状態の方がカスタム車よりよっぽど希少だし、見てる方も「懐かしいあの頃」を感じられる。アルマイト加工されたカスタムパーツ満載の旧車って古い武家屋敷にエコキュートが取り付けられてるようで、落ち着かない気分になるんです。

高性能を目指すのも良いけど、高性能なものってやっぱり金がかかる。ドカのデスモはフリクションなくって最高のフィールですけど、バルブクリアランスは2万㎞くらいで調整しなきゃならないし、H2Rのバリバリにパワー出した加給エンジンだって、通常のエンジンより早いスパンで腰上は開けなきゃいけないと思うんですよね。H2はまだ新しいんで検証はこれからだと思いますが、この世には代償のない高性能ってない。

公道バイクはレーサーじゃないから、速さや馬力だけが価値じゃありません。維持コストや可動部分の耐久性、乗り心地も立派な価値で、そのバランスをどこにとるか?そういう見極めは凄く大事だと思うんです。そして、バイクをどのような用途に使うかによってもその3つのバランスの濃淡は変わってくる。

湾岸ミッドナイトみたいに300km/hを伺うためのバイクなら、どんどんパーツを入れ替え、足回りもガチガチにして刹那の超高速の世界を存分に味わえばいいわけですが、まったり旅するバイクだったら、パーツに金使うより、ライダーのウェアや、ツーリングバックやキャリアなどを購入して、道行きの快適性を上げた方が良いってことになるでしょう。つまり、前者は性能重視であり、後者は旅情と耐久性重視でいいわけですね。

私の入れたオーリンズはノーマルより高性能ですが、定期的にオーバーホールをしないと、ショックが徐々に抜けてきますし、(オーリンズ推奨のオバホ期間は2年2万㎞)繊細なだけあって味落ちもハッキリしてるんです。私はオーリンズサスを入れたことでノーマルサスの凄さが逆にわかっちゃって、今や大いなるジレンマに陥ってる。

確かにオーリンズは止まるし曲がるし踏ん張るし、動的質感も高いです。バイクはとても安全になった。でも、その一方で「実に優等生で国産車的」な味わいになっちゃった。私がハーレーを買ったのは国産車にない価値観が新鮮だったからであり、国産車みたいにしたいわけじゃなかったんですよね。

性能は酷いものだけど、アメリカ情緒の表現能力では「ボケ倒してるノーマルサスの方がどう考えても上」なんです。どんな優れた芸人でも天然には勝てないっていいますけど、ダイナのサスは完全にそれ。ここのブログで何度も言ってますが、もうね。ノーマルのフロントサスのボケっぷりは、ある意味天才です。

ザラブ嬢(ストリートトリプルRS)との対話

「ケンシロウの胸にある7つのものは何だ?!」


「シンにやられた傷ですよ!コーナリング中に何ふざけたこと言ってるんですか!」


ダイナ嬢(ダイナ・ローライダー)との対話

「ケンシロウの胸にある7つのものは何だぁ!言ってみろ!」

「もぐさ」


「お灸かよ!どんだけ胸の筋肉疲れてんだよ!違うだろ!」


「陥没乳首」


「なんだそれわぁ!乳首7つもあるわけないだろ!しかも陥没してるのかよ!奇数なのかよ!違うよ!敵につけられたものだよ!」


「鼻クソ」


「それずっとつけてんのか!」


「エロいあだ名」


「洗濯屋ケンちゃんか!懐かしすぎ!」


「ブラジャー」


「それ絶対リンのじゃねぇか!このロリコン犯罪者がぁーーー!」


どーですか、このボケっぷり。ダイナ嬢は乗り手の興奮を鎮めるために、全てのレスポンスに絶妙なタメとボケといなしを入れてくる。こちらの闘志全開のツッパリを下からあてがって威力殺してくるんですよね。フロント19インチの300㎏ですから、こっちがいくら頑張ったってバイクなりにしか走らないし、バイクがこっちに個性をぐいぐい押しつけてきますからね。

私思うんですけど、カスタムやチューニングって乗り手によるノーマルへの挑戦なんですよ。乗り手はメーカーというお釈迦様の手のひらの上から必死で出ようとしてる孫悟空です。私も、これまでいろいろあがいてみたけど、しみじみ感じたことは「お釈迦様って偉大だなぁ」って当たり前の事実でした。

今のダイナは確かにノーマルより私好みになってますけど、途中まであんまりうまくいってなかったんです。それが良くなってきたのは、「ノーマルのコンセプトを尊重しよう」とある時期からカスタムの方向を修正したからです。メーカーが長い年月と叡智を投入して確立してきたレシピに深いところで手を加える行為は、私の感覚では得るものより失うものの方が多かったんですよね。

てんかん発作(子供のように地団駄を踏んでますが、私とハーレーの関係はこれが正しいような気がする。ぼやきたくなることもあるけど、ダイナのおかげで私の狭かった視野は随分広がったんですよね。)

公道バイクはレーサーじゃないから、道路環境やバイクの使用目的、経済的事情などと折り合いをつけつつ、乗り手が目指すところを自由にカスタムすればいいわけですが、自由だからこそ、バイクに何を求めるのかをしっかり定めないと無秩序になりやすいんですよね。

お釈迦様に逆らった乱暴者の大猿は五行山に幽閉され、やがて三蔵法師と出会い「天竺(ニルヴァーナ)を目指す」という大いなる目的を手に入れたけど、自分のバイクのチューニングやカスタムにおいては、道を指し示してくれる導師なんてどこにもいないし、それを採点できるのは自分だけ。だからこそ「自分の好きという感覚」を大事にするべきだと思うんです。

日本人って「輪を乱さず、平和に調和的に」っていう教育を受けてきたから、最大多数の価値観に準じる考え方が強いですよね。大人になっても子供の頃たたき込まれた「小さい前ならえ」をずっとやってるんです。

企業なんかの中間管理職をやると組織を回すために自分を殺しすぎて、いつしか自分自身がわからなくなってきたりしますが、自分の個性がわからないのに、他人の個性を尊重できるわけがない。だから他人の個性を省みず型にはめようとしたり、こっちの歯車に組み込もうとしたり、マウントをとったりという行為が後を絶たないんだと思うんです。

よく購入指南に「下取り査定を考慮して賢い消費を!」「人気色、人気グレードはこちら!」なんてのがYouTubeで上がってるけど、下取り査定を考慮すると「次に乗る人達の好みを考えて、自分の乗るものを選ぶ」なんて本末転倒なことになる。それじゃ自分の選択が大衆色に染まるだけ。

マネーパワーに支配され、生きることすら窮屈なこの消費社会で、我々に残された唯一の武器が「選択の自由」なんです。だからそれだけは放棄しちゃダメだと思うんですよね。肝心のところで将来の経済的利益を優先するなんて、自分の価値は紙幣以下っていってるようなもんじゃないでしょうか。

金をどんなに貯めこんだって、自分自身のために使うという選択肢がなければ、一体そこになんの意味があるのか。不安でも苦しくても赤字になっても、他人にどう言われようとも、自分自身の好きを何より大事にして、与えられた選択権を行使していく。そうすれば、少しずつ自分の満足するものに近づいていくんじゃないかと思う。

でも、これがなかなかできないんですよねぇ・・・。簡単なはずのことが実はとっても難しい。なぜなら自分のことを一番わかってないのは自分だったりするからです。

結局のところカスタムというのは自分探しの旅です。何もわかってなくてもトライ&エラーを繰り返しながら前に進むしかない。私というバカな大猿がニルヴァーナという理想に到達するすべはそれしかないと思ってるんですね。