今回はバイクでも模型でもない、映画の感想。下らない幕間のブログです。Yahoo!ブログ終了に伴い、移行ツールが提供されていますが、今のところ移行先は決めていません。

それはともかく、ゴジラ・キング・オブ・モンスターズを見てきました。地元石川で1回と移動中時間が空いたので博多でドルビー3D版を1回の計2回観ています。

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(とにかくハリウッド版ゴジラは制作費が半端ない。しかもキングギドラやモスラ、ラドンが出てくるとなれば、これを見ないという選択肢があるだろうか?いやない。)

題名のごとく、この映画はまごうことなきコテコテの怪獣映画。私は特撮ファンで、これまで特撮系の映画はほとんど観てきました。ちなみに一番思い出に残っているのは、昔新宿で平日朝に観た1996年の「モスラ」

広大な映画館は私と酔っ払いのおじさん2人の貸し切り。「場末のポルノ映画ですらもっと客がいるのではないか?」と思えるほどのさみしい入りで、そこにあったのはそこはかとない背徳感。「暗い物陰からモスラの死闘を覗いていく」という江戸川乱歩の人間椅子のようなドキドキ感があったことを今でも覚えております。

で、今回のゴジラ。うーん。さすがハリウッドものすごく怪獣動いてる。これは制作費半端ない。これだけの映像を見せられれば「映画としては十分面白かった」といえるんですが、個人的には前作のハリウッド版ゴジラ(以下「ギャレゴジ」といいます。)と同様、「スッキリしない感」が残りました。

私が近年見た怪獣映画で面白かったものを上げれば、ガメラ2(レギオン襲来)、パシフィック・リム(←1のみ評価)、シン・ゴジラとなりますが、そもそもその中に「ギャレゴジ」は入っていない。

ちなみに私の好きなロボットアニメトップ3は「天元突破グレンラガン」「機動武闘伝Gガンダム」「OVAジャイアントロボ」。マイナーアニメが並んでいますが、どれも超熱血荒唐無稽系のロボットアニメです。

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(宇宙規模の大風呂敷を広げ、勢いだけで見事に閉じきった天元突破グレンラガン。どんなピンチも不条理もドリルでこじ開け押しとおるという、力技を最後まで貫いた偉大な作品。私が推奨する名作ロボットアニメNo1です。)

歳をとり、人生に対する感動が薄くなるにつれ、ピュアな熱血系嗜好が顕著になり、下手すると「子供達よりも子供らしいもの」を求めているのかもしれないと思う時がある。私は歳を食っても円熟味を増す方ではなく、円環の理に導かれ、童心に還っていくタイプなのかもしれません。

そんなアダルトチルドレンが「怪獣映画になにを求めるのか?」のかは人によって様々でありましょう。多くの視点があるからレビューや評価もばらける。特に怪獣映画は特殊なカテゴリーで怪獣を基軸に描けば、人間ドラマが希薄になり、リアルな人間ドラマを強調すれば荒唐無稽な怪獣との折り合いが難しくなる。

私が怪獣映画に求めるものは、徹頭徹尾「怪獣が格好いい」こと。人間ドラマは良質であればそれはそれで素晴らしいですが、怪獣がお供え物になるようなら、人間ドラマなど不要です。

一部の人は怪獣映画に社会派の考察や、原水爆へのオマージュを求めたりされていますが、それはスクリーンの中の「怪獣という存在」を引き立たせる重要なバックボーンの一つにすぎない。怪獣という存在が見る者の魂に強く焼き付いた結果、怪獣達に興味が生まれ、その背景の広がりを求めていくわけで、そもそもの怪獣が格好良く描かれなくてはどうしようもないというのが私の持論ですし、そもそも

「圧倒的な存在の前では細かな説明など不要」なんです。

指パッチンで人が真っ二つになろうが、首を中心に体が高速回転しちゃおうが、銭をつなげて剣にしちゃおうが、石破LoveLove天驚拳だろうが、熱く燃えて格好良ければそれでいいじゃないか。「科学的には説明のしようがない理不尽や不条理さを圧倒的な勢いとパワーで押しとおる」のが私にとってのファンタジーです。

ちなみ私が格好良いと震える動画を下記にリンクしておきます。

指パッチン動画←もはや伝説となったフィッツカラルド。

石破LoveLove天驚拳動画←これを涙を流しながら見られるようになれば熱血系アニメファンとして本物。

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(銭と紐で剣を作る。これを科学的に説明する意味などない。理解不能なれどその発想によってただ者ではないことが担保される。なぜなら人は理解できないものに真の畏怖を感じるからです。OVAジャイアントロボから、十傑集のリーダー「混世魔王・燓瑞」。)

結局私の中では怪獣映画は怪獣以外はお供えものに過ぎない。ストーリーですら怪獣を輝かせるための調味料です。

で、結局はこういう客が一番やっかいなんです。映画というのは収益を見込もうとすると万人受けするようにバランスをとって作らなくちゃならない。しかし、万人受けするように作れば、私のように評価軸が偏った人間には物足りなくなる。

これは製作者が悪いのではなく、その意図と関係なく、この世の商品すべてにかけられている「呪いのようなもの」。会社の規模や想定した売り上げが小さい時にはエポックメイキングな商品が好きなように作れます。それがコアでディープなファンにヒットすると、そのコアユーザーの評価に一般ユーザーが引っ張られ、やがて会社は大きくなる。そうすると今度は製作者側に会社規模を維持するために「売り上げを確保したい」という強いバイアスが生まれてくる。

そのバイアスにより、商品は広範な層に売れるように、これまでの「マイナスを受け入れても優れたところを積み上げる」積み上げ式の商品企画から、「優れたところを維持つつマイナス部分を削っていく」商品企画になっていく。しかし、マイナス部分を削るということは、評価グラフが丸くなるということです。

一方プロダクトというのは、駄目なところがあるから尖った部分がより際立つのであって、その不完全さが個性なのです。

この世の中は駄目なところを削るという考え方で良くなるかというと決してそうではない。尖った商品を購入していたファンは攻めの姿勢を評価してこそ購入していたわけで、守りに入った商品からは個性は生まれない。やがてコアユーザーは離れていき、そのプロダクトは仁義なき過酷な生存競争の中に沈んでいくことになるのです。

私が思うにギャレゴジとシン・ゴジラの一番の違いはそこにある。邦画であるシン・ゴジラに登場したゴジラは幼少よりゴジラのイメージを魂に深く刻んだ日本人だけに受け入れられればいい存在です。しかし、ギャレゴジはハリウッド映画として全世界の人々に違和感なく刺さらなくてはならない。「怪獣とは何か?」という共通認識のない人々が触れたとしても違和感がないように再設定され、ソフィスケートされたゴジラがすなわちギャレゴジであるといえるでしょう。

生物学的にバランスがとれ、「こんなのいねぇよ」と批判されないように均整のとれた重量感のあるボディラインと、生態系の頂点に立つような険しい表情になり、着ぐるみによって表現されていた無表情な異形感から、生物として破綻のない姿になった。

そのスタイルが私の中のアイコンとしてのゴジラとどうにも一致しない。格好よいと感じないからどんなに激しい戦闘を繰り返し、素晴らしいCGを見せられても気分が「スッキリしない」「ああ、このゴジラがもっと自分好みの姿だったら最高なのにな~」と感じるんですね。

今回の映画で私が一番かっこいいと感じたのはラドン。これは文句なく良かった。映画の題を「ラドン・クソバード・オブ・モンスターズ」にしたいくらい。

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(動いている姿がド迫力で、怪獣の恐ろしさを体現していたのは間違いなくラドン。スピンオフでラドン主役の映画を作っていただけないだろうか??)

この映画の中で、キングギドラやモスラ、ラドンを見て感動したのは、この3体については私自身「生物学的な視点からでも特段問題ない」と感じていたからでしょう。だから、CGでめちゃめちゃ動くこれらの怪獣の勇姿を心の底から楽しめた。

しかし、ゴジラについてだけは、私にはそれができなかった。私の中ではゴジラは概念であって「単なる強い生物ではない」のです。映画の中で、「王が目覚めた・・」という台詞がありますが、私の中では彼は王ではなく「理不尽な破壊の視覚化」なのであります。大量殺戮のために生まれた原子爆弾の恐怖を黒い獣に昇華させたのが本来のゴジラであり、感情のない黒き爆弾のように、ただひたすら人智を超えて一切を破壊する。

私の中でのゴジラはそんな存在ですから、ギャレゴジのいかにも生物的な体型や表情に私はどうにもなじめない。ゴジラは生物離れしていて異形でなくてはならない。理解できず、なにを考えているかもわからず、ただ街を踏みつぶし、破壊の限りを尽くす超自然。しかし、ギャレゴジもマグロ食ってるゴジラも、アメリカの作るゴジラはそのリアリティを確保する上で生物としての足かせから逃れることができない。

神といいつつ神にはなれない。それが神に昇華されるときは暗黒神ではなく、人を守る存在でなくてはならない。それは荒ぶる神すら崇拝の対象から排除しない日本的な価値観が他国には存在しないからであり、膨大な興行収益を得るため、多くの地域で受け入れられなければならないハリウッド版ゴジラの背負った宿命であると思っています。

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(シン・ゴジラの放射能火炎。造形はどうあれ、万物を分け隔てなく消滅させようとする意思にこそゴジラの恐ろしさがある。この禍々しさと圧倒的な文明破壊力がゴジラの本質だと考えています。)

一方で、世界的な興行収益が物語るように、ギャレゴジのゴジラ像こそが世界で受け入れられるマジョリティーであり、私のようなゴジラ像の方がマイノリティーなことは明らかです。かといって私は自分の持つゴジラ像をかえるつもりはないし、それを受け入れつつ、今後もハリウッド版ゴジラを楽しみにしていくでしょう。だって基本、怪獣映画が三度の飯より好きだから。

この世の中はあらゆる意見の最大公約数で成り立っています。ゴジラ映画だってプロダクトである以上、狙った規模に応じて在り方が変わるのは当たり前。それをことさらに取り上げて、糾弾するほど子供ではないし、それと折り合いをつけていくグレーさも歳と共に身につけた。

この世が少しずつ見えてきて、この世の中心は自分ではないということがわかってくると、物事を無理矢理自分に合わせようとし、届かぬ不満をぶちまけるのではなく、自分の中の価値基準を変えることなく、自分の思いと異なるものもそれはそれとして受け入れ、その範囲内で楽しみを見つけていくという選択をするようになる。

この世の多くのサイレントマジョリティはそういう人たちじゃないかと思う。そんな声なき声をどう感じ、聞いていくのか?これからの大衆マーケティング上での最重要課題になっていくんだろうなぁ・・などと映画と全く関係ないことを考えつつ、この幕間のブログは終わるわけであります。