今回は水着フランの最終回になります。皆様私のフィギュア紹介に長い間おつきあい頂いて、まことにありがとうございます。Yahoo!からの連絡では6月4日にブログの移行ツールが提供されるとのこと。これだけ書き溜めたわけですから、どっかに移行して資産を残すべきなんだろうなぁ・・と考えておりますが、トップページの画像とかレイアウトとか、また最初から作るのかーと思うとちょっと萎えちゃうところもある。

3年ほど前から現在にわたって、このブログでガレージキット製作記をアップして参りましたが、私のガレーキットストックがつきる前に、Yahoo!ブログが終了するとは夢にも思っていませんでした(笑)。

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(最終回お約束のサービスカット。これは決して変態行為ではなく、何の劣情もない制作物の記録であるとご理解下さい。)

というわけで、この水着フランがYahoo!ブログ最後のキット紹介となります。まだ未紹介キットはあるんですが、今はキット一つ紹介するのに4ヶ月くらいかけていますから、そのペースだと全部紹介する前に、Yahoo!ブログは終了しちゃいます。新規の製作ペースはそれよりさらに遅く、1年に1体作るか作らないか?って感じなので、フィギュアの完成品ストックはどんどん減っていっているんですね。

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(どうですか?皆様。はっきりいって尻と太ももにしか目がいかないでしょう?それが男の悲しき本能です。メカとは違い、フィギュアを見る視点には強弱がある。どんなにメカを作り込んでも、顔・尻・乳・太ももの評価で全てが決してしまうのです。この視点の強弱は漫画もフィギュアも同じです。

このYahoo!最後のガレージキット製作記のエンディングを書くにあたり、美少女フィギュアについての総まとめをすべく

「美少女フィギュアガレージキットってなんなんですか?」

とまず「一生誰からも聞かれないような哲学的な問い」を、もし、よしんば、何らかの間違いで誰かから聞かれたと想定して回答してみたい。

その時、私はあごに手を当てて目をつむり、深く頷き、目を再び薄く見開きつつ、したり顔でおごそかにこう答えるでしょう。

「美少女ガレキフィギュアとはすなわち模型である。」と・・。

「そんなの当たり前やないかっ!!シバクぞ、このド変態がっ!!3年も美少女フィギュア製作の紹介してきて最後にそれかーーーい!!」

バグシャァァァアアア!(←ハリセンの強打音)

とツッコまれることは百も承知でありますが、やっぱり模型なんですよね、美少女フィギュアは・・。でも多くの方は美少女ガレージキットフィギュアという「腐の世界」「純粋な模型と認めてはいない」「なんとなくうさんくさい目で見ている」のではないでしょうか?

でもよく考えて下さい。「1/35のハノマーク兵員輸送車のキットは模型であって、同スケールのマジックミラー号のキットは模型ではない」という理屈が通るでしょうか?

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(AV界の兵員輸送車マジックミラー号。どういう用途かは見て想像して下さい。)

「バカモノ!!貴様らの軟弱な萌え~の対象と、過酷な戦場で生き抜いている男達のヒューマンドラマを一緒にするでないっ!!それは冒涜であるゾォ!!」という怒気をはらんだ原理主義者の方々の主張も否定するわけではありませんが、非常に重いヒューマンドラマを模型に求めるかどうかは制作者次第。

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(マスキング風景。この地道な切り貼りが、美しい塗り分けを可能にする。こういう努力は最も苦手なので、ベタッと広範囲にマスキングテープを貼っちまいたいところですが、少しでも隙間があると塗料が漏れて台無し。結局これくらいの大きさのマスキングテープ片を地道に隙間なく貼り合わせるのが、一番確実という結論になってます。)

「アホクサっ!なぜ模型でそんなクソ重いヒューマンドラマを再現しなきゃならないのか?俺は側面装甲に魔法少女のデカールを貼る!それが我が最強の弾よけであり、福音であり、俺の望む棺桶なのであぁぁぁる!!」と目を炎マークにして力説されると、はてそれも一理あると思う。

美少女フィギュアに排除の論理を適用するなら「こんな泥まみれで汗臭い、黄ばみブリーフ、ひげ面、口臭、胸毛マンのオヤジフィギュアなど作れるか!!オエーッ!ペッペッ!!」とか、「これは戦争の象徴であり、平和憲法を旨とする我が国には受け入れがたいものであって・・かくかくしかじかであるので、ナニであってナニである・・」という主張に対し、ミリタリーモデラー側も納得できる反論を用意しなくてはならないでしょう。もう考えるだけで吐きそうに面倒くさいですね。

結局言いたいことは、人がナニ作ろうが、まったくもって個人の自由だし、クサそうと思えばどんな模型だってクサせるということなんです。

この世においてはラノベより純文学の方がエラいとか、ウルトラ怪獣の名前を覚えるより元素記号を覚える方が高尚だと思われているフシがある。私にとっては、とにかく、こうでなきゃならぬというフレーム自体がこの世で一番無駄なものです。

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(プラズマブレイド。シルバーとゴールドの塗り分けですが、ゴールドの発色はホント難しいです。)

そんな枠をはめられたところで、結局人間は配られたカードで勝負していくしかない。カードの絵柄によってはすでにもう覆せない不平等が生じている。

私も若い頃のある時期までは、純文学が好きで尾崎一雄や梶井基次郎などの大ファンでした。なぜ純文学を読んでいたかというと、根っこでは「そういうものを読むことがかっこいい」「これ読んでればいつか違うステージの自分になれるかもしれぬ」という勘違いがあったからです。

でも、文学者っていうほど幸せじゃない。特に美文を書く人ほど幸せではなかったりする。あれだけの文才があってなお、生活苦という宿命から逃れられないのですから、それを読んでいるだけの人間に福音なぞあろうはずがありません。

私のアホなブログを読んでおわかりになるとおり、本を沢山読んだからといってインテリになることなど全然ないし、北斗の拳を読んだからといって、具体的な秘孔の場所がわかるわけじゃないのです。

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(個別パーツの塗装。このゴールドはガンダムカラーのゴールドを薄めてエアブラシで吹いてます。いろいろゴールド試しましたが、ガンダムカラーのゴールドの発色が私は好きです。)

それがこの世の悲しきリアル。それなら格好つけることもなく、それを受け入れて性癖を完全解放した方が楽しく生きられると私は思ってます。

結局のところ、この世に生きる人たちは

「自分の罪と人生の手持ち札を理解して生きている人かそうでない人か」に二分されるのです。

サラリーマンが目を血走らせて狂ったように働いている一方、農家のおじさんが気持ちよさそうに人生をスローライフで生きている。そのどちらが良いかなど誰にも評価できない。

それと同様、「ワキガ臭いドイツ兵はまっとうな模型フィギュア」であり、「軟弱極まる萌えキュン美少女フィギュアは唾棄すべき造形物」というこの世の偏見に満ちた線引きなど何の意味もない。

ということで、選択された対象がどんなに受け入れ難いものだとしても、それが模型としての組み立て工程を有していれば、模型であるという事実は動かない。モチーフの属性は「模型であるか否か」には全く関係がありません。

そして「美少女ガレージキットフィギュア」の製作手法は模型以外の何物でもない。下地処理をし、芯棒を入れて仮組みした上で接着行程を確認し、もう一度ばらし、塗装し、組み上げる。使う道具にも何らの違いはなく、組み立てるのが、「メカなのか人なのか?」「おっさんなのか美少女なのか?」の違いだけ。

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(後ろ姿。柔らかそうな肩のラインが、少女の面影です。柔らかなパステルカラーの風合いと、冷たく固い兵器のコントラストが、このフィギュアのポイントでしょう。)

私はミリタリーからジオラマ製作をはじめて、「機械は情景や人と関係性を持つと大きく魅力が増す」ということを実感し、人が機械と寄り添うことを求めるようになり、やがて「メカ+人」に行き着きました。

それを作っているうちに「メカを輝かせるために人を置く」のではなく、「人を輝かせるためにメカを置く」という考え方に変わったのです。「もっともっと人の魅力に迫りたい、人そのものを製作したい!できれば戦闘服のおっさん共ではなく、きらびやかな個性あふれる衣装を着た萌えキャラで!」ということで、ガレージキットフィギュアを一体作ってみたが最後、その魅力にどっぷりハマッてしまったわけです。

在りし日に沢山作った35分の1スケールのドイツ兵やロシア兵では、表情の機微はなかなか作れない。しかし、これが6分の1や8分の1などの大スケールになると、人の微妙な表情を再現できるようになるし、しなくてはならなくなるのです。私のブログは下らないイラスト達にあふれていますが、イラストだってそれなりに何回も書き直したり、検証したりしてる。

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(浮かせは3㎜のアルミ棒。裏はドンガラですが、フィギュアの重量を抑えるにはやむを得ない措置。)

しかも美少女ガレージキットフィギュアになると、これすなわち3次元。非常にハードルが高く、やりがいのあるチャレンジになる。フィギュアを製作していると、人という無限の創造性を持つ対象を見つめながら、自分と向きあっているような気がしてくる。結局のところ、自分が頭に描けない表情はフィギュアに再現することはできない。フィギュアがうまく作れないのは自分の創造力とアウトプット能力の欠如であって、これは文章でも仕事でも共通しているものなのです。

フィギュアを通じて、自分の表現力と向き合ってみて、そこでしみじみ実感するのは自分は「まだまだ人としての修行が足りない」ということと、「独りよがりを極めた、自己中心的で閉鎖的な非常に痛い人間である」という事実です。しかも自分が決して好きではないので、日頃は暗いほら穴に閉じこもっている。社交的なように見えても、隠した本性は絶対に明かさず、一般人を装っているだけ。

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(上から。足のラインと表現方法がとっても素敵ですね。)

その、ほの暗いほら穴の隙間から、映写機のレンズだけを外部に出して上映しているのが私のブログであり、製作したフィギュアの数々であるといえるでしょう。つまりこの一連のブログは非常にキモい、自主製作のホラーショーのようなものなのですね。

いずれにせよ、今回で水着フランは最終回。そして私のホラーショーも一つの区切りを迎えるわけです。

これ以上フィギュアを紹介する機会はあるかどうかわかりませんが、次があるとしたら、これまた相当古いフィギュアになり、へっちまん著「フィギュアの歴史」みたいになっちゃいそうで、ちょっと気後れがしています。

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