私の令和最初のブログへ。ようこそ。

なんと令和最初のブログがハーレーが嫌われちゃう理由を考察する最終章。最初にして最後という倒れ込み。しかも最後が一番長い(笑)。

前回、前々回のブログはこちら。

ダイナ乗りから見た「なぜハーレー乗りは嫌われちゃうのか?」の分析 その1
ダイナ乗りから見た「なぜハーレー乗りは嫌われちゃうのか?」の分析 その2 「路上のルール」

今回は「排他性と階級制とブランド論」というお題を持ってきてます。ハーレー乗りってハーレー以外に興味がない人が多い。ハーレーは非常に「味が濃いバイク」だし、虜になる人が多いのも理解できます。しかし、それを差し引いても排他性がいささか強すぎる。

私はハーレーは「大型を買う人の5割近くが選択するようなバイクではない」と思っています。日本のライダーはハーレーかそれ以外かに2極化するほど無個性ではない。しかし、ハーレーは日本車にはないブランド力と世界観で乗り手を強烈に縛ってきました。

コミュニティ的にもショップツーリングはハーレー一色ですし、参加人数が多く気持ちも大きくなり、必然的にそこでの会話は「バイクはやっぱりハーレーだよねぇ」「ハーレー最高」って雰囲気になりがち。

ハーレーメディアもほぼ完全な専用誌で、他の価値観を受け入れるような多様性はありません。国産バイクにもカワサキ専用誌などがあるので、その潮流を当たり前のように感じるかもしれませんが、ハーレーはカワサキのような総合メーカーとは違う。

カワサキは1社でツアラー、アメリカン、スーパースポーツ、ストリートファイター、ネイキッド、オフロードとあらゆる嗜好をカバーする製品ラインナップがあるし、エンジンだって単気筒、ツイン、マルチ、ターボなど様々なバリエーションを取りそろえています。

でもハーレーは基本アメリカンクルーザーのみのラインナップ。エンジンもVツイン一択。これはガンダムで言うと「ドム専用誌」みたいなもんです。

そりゃ一口にドムといっても「ドム」、「リック・ドム」、「ドム・キャノン」、「ドム・トローぺン」、「ドム・バラッジ」、「ドム・フュンフ」「ドム・マーメイド」、「ドワッジ」、「ドワッジ改」などバリエーション一杯あります。でもこの中で宇宙行けるの実は「リック・ドム」だけなんですよ。(←いやどうでもいいから。)

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(ドワッジ改・ドムの最終量産型。まさにフルチューン状態。ハーレーで言うならCVOか?ZZガンダムに「モビルスーツはパワーじゃない!機動性だ!!」と叫び突っ込むも相手にならず。やられメカをいくら魔改造しようともガンダムブランドには勝てない。)

ハーレー乗りの多くは、ハーレーというブランドフィルターを通してバイクを見ているので、国産乗りからすると別人種のように見えるかもしれない。まぁバイクなんて趣味ですから、乗ってる人が幸せならなんでもいいわけですが、コミュニティの中にいると、ハーレーと平行してF6Bに乗ってる自分が二重スパイのような気分になってくるから不思議です。

でも、こういうことってバイク以外でも沢山あります。私はハーレーの販売形態を一種の「ブランド商売」と定義していますが、ブランドは独特の価値観やストーリーでファンを作り消費者を縛っていく囲い込みの世界です。点数で優劣が決まった学生時代とは異なり、人は大人になると自分の価値がよくわからなくなる。だから、自分の持っている物の価値を自らの価値の依り代にしたりする。日本人がブランド好きなのは、誰からも優れている、価値がある、と認識されている物を身につけて、認められたいという自己肯定の欲求があるからなのでしょう。

そんなブランド品に大事なのは、何より正しき血統とストーリーです。元祖の屋号は販売において強力だし、同種の商品を亜流扱いすることが可能になる。

またブランドは顧客満足感を金に換える商売ですから、ブランド品の販売ラインナップはこの世の中の構造に合わせてヒエラルキーがはっきりしている傾向にある。要は「高いものほど明確に良くできているし、イキれる」ようになっているのです。これは長年の間、変わることない販売手法と言っていいでしょう。会社組織に平社員→部長→課長→重役→社長のヒエラルキーがあるように、ハーレーはスポスタの上にダイナ・ソフテイル系があってその上にツアラー系、CVOがある。

競争社会で生き抜き、金を稼いでる人ほど、所持金に見合うものが欲しくなるし、より良いものを身につけ自分の価値を示そうとするのは当然の欲求です。そういう消費欲求が人のエネルギーでもあるので、金ある人はどんどん消費して経済を回して頂きたい。

私も以前はそういう上下の価値観で優劣が決まるような世界にいて、頭アホになってガンガン消費していたわけですが、そこにどっぷり浸っちゃうと、「自分にあった一番良いもの」を離れ、単に「購入できるもので一番高いもの」を選択するようになってしまう。

なぜか?当時の私には強烈な見栄と「他人にマウントをとってイキリたい」というスケベ心があった。そういうものを身につければ、自分の世界が変わるかもしれないという幻想も抱いていた。人は自分にないものを求めますから、私のように野良犬のように飢えた人間にはブランドが非常に刺さる。でも結局、自分は自分でしかありません。物で飾ったって自分の価値なんか高くならないのです。

私はブランド商売を決して否定しないし、逆に肯定派です。ブランドを選んでおけば質とサービスはしっかりしたものを確保できますし、夢のない消費はクソのように味気ない。しかし、その反面、ブランドは階級制になってますから、上を見てしまうと果てしない青天井の地獄が待っている。

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(煽りまくるレスバでは恐ろしい強さを誇るハーレー。アイデンティティを語り出したら止まらない。塗装やメッキ品質など、見た目質感も非常に高い。女は器量といいますが、化粧の質は国産車にかなりの差をつけている。)

私にすれば、スポスタよりビックツインが良いとか、頂点はウルトラだとかそんなことはどうでもいいことです。ツアラーは高額になればなるほど余分な装備がついて重くなる。車はいくら重くなってもパワーのあるエンジンを積めば問題ないですが、バイクではそうはいかない。停止状態の取り回しはライダーの筋力とバランス感覚に依存してるからです。

重いバイクにばかり乗ってる私が言うのもなんですが、2輪しかなくて不安定なバイクに一番いらないものは「車重」なんです。ですから高額化して重くなるというのは「高い金払ってバイクを乗りにくくしている」という矛盾をさらけ出してる。

バイクは個々のライダーの技術や体格に応じて一番乗りやすく、楽しく感じるバイクが最上のものであって、ヒエラルキーなど必要のない乗り物です。ベテランになればライディングにも慣れて選択範囲が少し広くなるかもしれませんが、人の個性によって必要とされるバイクは様々だし、無理してフラッグシップを買ったとしても、世界が大きく変わるもんでもない。

もし各メーカーのフラッグシップモデルがこの世で絶対のものなら、私はモンキーやグロムに乗ってないし、あらゆるバイクを乗り尽くしたベテランバイカーがカブに行き着くこともないでしょう。

掲示板見てると「スポスタはハーレーの最下層」なんて書き込みをタマに見ます。また別の掲示板ではスポスタ乗りが「国産アメリカンはニセモノ」なんて言ってたりもする。でも、人のバイクを否定し、マウントをとり、またそれにムキになるのは、自分自身の好みが定まっていないからなんだろうと思います。

心から自分が必要なものを理解して、自分の選択に自信を持っていれば「人の選んだものなどどうでもよくなる」し、人の批判なんか「いやー、私はそうは思いませんねー」の一言で終わる。

私は日本のタイトな山道で乗るにはダイナの車重300㎏は重すぎると思ってます。限界付近までシゴいていくとハーレーほど難しいバイクはない。ハーレーは悲しいほどバンク角がありませんが、あの車重とシャーシと足回りでバンク角稼いじゃうとガードレールに刺さる事故が増えまくるでしょうから、当然の措置だと思います。

そういうクソ重いバイクを無理矢理タイトな山道に持ち込み、柔道部のランニングのようにワッセワッセと走って行くのが好きという私のようなバカは別にして、ハーレーを日本で乗るならダイナよりスポスタが一番バランスが良いと思ってます。でもハーレーは序列でバイクを語るところがあるから、本来日本に一番あったスポスタが序列最下位の認定を受けてしまう。

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(今回は令和祈念。なんとイラスト二丁使い。ハーレーって外装は凄いショーガールなんですが、乗った感じはカントリーマァムですね。そのギャップがいいちゃいいんですが・・。それにしても、今回F6Bを眼鏡にツインテにしてみたんですが、年増の若作り風味が凄い。うわキツ状態です。)

このような序列に加え、その排他性も特徴。感性性能に優れ、数値性能に依存しないハーレーは全てのモデルに一体感があり、文化も思想もあるのでコミュニティなどが作りやすく、コミュニティを通して顧客に常にアプローチすることで、顧客をハーレーの世界につなぎ止めてる

ハーレーって自由の象徴のように言われていますが、その実バイクの中で一番足かせが填まっているように感じる。雑誌の「ハーレーは人生だ」なんて煽り文句のキャッチフレーズに、ハーレー好きはグッとくるんでしょうが、私は息苦しくて過呼吸になる。

結局なんだかんだいってハーレーの世界も人間社会の縮図で非常にややこしい。自由という概念すら、メディアや誰かの言葉で作られ綴られていく。単なる2気筒バイクがなぜか「鉄馬」になり、「人生」になり、「自由の象徴」になる。自分の目の前にある無垢の機械に他人の言葉によって、いろんなものが背負わされ、どんどん重い存在になっていく。しかし、私にとってバイクはアクセルひねって気持ちよければそれでいいのです。多くの言葉でバイクを修飾する必要なんてない。そもそも私は、この世の中にある数多の概念の押しつけから逃げだすためにバイクに乗ってるところがあるわけですから。

今の私にはハーレーを取り巻く環境全てがハーレー劇場という入念に作り込まれた巨大な舞台装置に見える。皆革ジャンを着てブーツを履いて、さながら仮面舞踏会の参加者のように世界の住人として楽しんでいる。そしてその世界にはハーレー以外のバイクは入れない。しかし、そのような画一的な価値観の押しつけを否定するバイク乗りは思いの外多いんじゃないかと思ってます。

というわけで、これまで3回に渡ってハーレーが嫌われちゃう理由を書いてきましたが、その多くは、ハーレーというバイクが生み出したものではなく、その販売手法や、コミュニティの在り方、乗り手のマナーによって生じたものであるといえます。

こういうブログを書いておいてなんですが、国産ライダーも一生に一度はハーレーに乗ってみるべきだと思う。ハーレーの思想は極めてまっとうで愚直で、ちっともアウトローじゃない。メーカーの考えてることと、乗り手の受け止め方に差があるだけで、ハーレーは作り手のバイクに対する見識が詰まった奥深いバイクであることは間違いないのですから。