前回のブログに引き続きハーレー乗りが嫌われちゃう理由について書いていきたいと思います。

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ダイナ乗りから見た「なぜハーレー乗りは嫌われちゃうのか?」の分析 その1

ダイナ乗りから見た「なぜハーレー乗りは嫌われちゃうのか?」の分析 最終章 「排他性と階級制とブランド論」

ハーレーが敬遠される原因として良く引き合いに出されるのがのが、アウトロールック。「真のアウトローでもないのに悪ぶった格好しちゃって、おかしいだろ?」という批判が少なからずあるようです。確かにハーレー乗りの中には半ヘル、革ジャン、看板突きの革ベスト、チャップス、グラサン等々の装備で、バチッと決めてらっしゃる方が多いですね。

でも私はバイク乗りというのはツナギにしろなんにしろ、基本的に奇異な格好をしている(私は昔、赤白で安物かつボロボロのコーリン製革ツナギを着ていたため、周囲から「汚いウルトラマン」と呼ばれていました。)ので、その程度は一般人から見れば目クソ鼻クソではないかと思ってます。

そもそもハーレー乗りにバチッと決めている人が多いのは、ハーレーのブランド戦略が完全に成功した結果だと私は評価しています。商品に様々な付加価値を投影し、世界観や派生した物語を作ってオーナーの満足感を底上げしつつ販売につなげることがブランド商売の真骨頂。ハーレーはメディアやアパレル、パーツメーカー等と一体になって、総合的にそれをやってる。一般オーナーをハーレー的ワンダーランドに引き込み、人もバイクも含めてデコっていくことで、ブランドを堅固なものにしているのです。

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(文字だけのブログにしないための挿絵。あざといサービスカットです。どんな下らない内容でもパンツ丸出しの絵を上げておけばそれなりにアクセスを稼げるのではないかというスケベ根性。我ながら見下げ果てた男であります。)

ハーレーはアパレルも革ジャンや革ブーツなど高額なものが多いので、ハーレーワールドの住人になり、ハーレーならではの高額特殊装束に資本投下してしまえば、次もハーレーなどのアメリカンクルーザーしか選択の余地はない。他のカテゴリーのバイクに乗ろうとすれば、これまでかけた投資の多くが無駄になるわけですから、顧客囲い込みのためにはなかなかにうまい戦略といえます。ハーレーがアパレル込みでショップ展開しているのはそういう下心があるからだと私は考えてる。

ハーレーはよく宗教だと表現されることもありますが、そこまでの世界観を作り、顧客に提供し、のめり込ませているマーケティング手法については、「理解できない、嫌い」と切り捨てる前に、一定の評価をすべきでしょう。

ただ、全く世界観がわからない一般人にとってはアウトロールックって単なる無法者にしか見えないはずで、家族旅行を楽しんでいる休日の道の駅に突然その集団が現れたら楽しい気分が吹っ飛んじゃう可能性はあります。

まぁそうはいっても、キャラづけを楽しんでいる人ってこの世の中には結構いると思うし、大した問題ではないと感じています。ではこの問題の本質はどこにあるのか?

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(山桜が満開です。こんな季節にバイクに乗れる喜びをかみしめたい。)

私は一部のハーレー乗りが多方面から批判されている本当の原因は、格好や爆音もさることながら、「自分自身の異端を理解していない」ところにつきるんじゃないかと思う。爆音は言い逃れのできない迷惑行為だし、アウトロー的な格好で道の駅に現れるのは、それがファッションやコスプレであったとしても、休日を楽しむ一般ファミリーからすれば威圧的に映るでしょう。私はそれをやめろとは言わない。でも、そういう異端者には「それなりの居場所」というものがある。

私はこの世の中の人たちは2つに分かれると思ってます。「自らの罪を理解し自覚している人」と、「罪を自覚していない人」です。

例えば、世の中にはアニメのステッカー満載の痛車に乗ってらっしゃる方達がいらっしゃいますが、彼らは自分の嗜好の特殊性を理解し、自覚した上で、抑制をもって自分自身を社会にさらしているし、批判も受け入れる。ステッカーデコも彼らなりにデザインセンスに気を遣う。それ故社会の中でマイノリティとして成立し、ネタにされこそすれ、過度な批判など浴びていない。

しかし、ハーレー乗りの集団で「凄く気合い入れてキメているなぁ」という人たちの多くはいろんなところで場の中心に居座ってしまう傾向にある。それは集団心理でしょうか?はたまた無意識でしょうか?

我々の住む日本社会は異端者を許容する奥深さがありますが、かといってその異端を公衆の中心に居座らせることを許すほど寛容でもない。

これまでもバイク乗りは常に異端とされ、ことあるごとに攻撃されてきました。あれもこれもバイクのせい。バイクは危ない。バイクに乗るな。息子が死んだのはバイクのせいだ。そんな言葉を耳がおかしくなるほど聞いてきた。

そういう不寛容の中で歩んできた多くのバイク乗りは多かれ少なかれ何らかの重荷を負っているでしょう。だから、ハーレー乗りがアウトロールックと爆音で道の駅の中心にいるのを見ると心にちくりと刺さるものがあると思う。

社会のルールに従わないのならば多くを語らず、この世界の片隅へ・・。それが異端として生きていくためのルールであると私は考えてます。

これは自分自身の過去の不道徳がそういう意識にさせるのかもしれません。だから私が一部のハーレー乗りに対して抱いている感情は歪んだ嫉妬にすぎないのかもしれない。でも、私から見ると彼らがアウトロールックに身を包み、センターステージでスポットライトを浴びようとしている姿は、何かとても奇異に映ってしまうのです。

バイクはこの路上では異端の象徴です。だから爆音も似合うし、アウトロールックも違和感がない。スーパースポーツではリミッターを振り切る暴走も時にはあるでしょう。しかし、異端はこの世のセンターステージに立つべきではない。

異端を自ら求めるのなら、世の中の片隅で、月にくるまり闇に吠えるのが「路上のルール」というものではないかと思っているわけです。

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(ブログのお題の「路上のルール」は尾崎の曲です。月にくるまり闇に吠える。尾崎は早死にでしたが、なぜ20代前半でこれだけの詞が書けたのか、私には理解できない。)