皆さんこんにちは。ワンフェスの転売問題やらずいぶん間が空いてしまいましたが、水着フランの製作記の続きになります。

イメージ 1
(水着フランのイラスト。作る前に全体像のイラストを描いたりしてイメージを高めるというのもありじゃないかと。)

今回製作した水着フランにかかわらず、最近のキットを仮組みをしていてしみじみ思うのは、「レジンキットの精度ってすごく上がったな~」ということ。昔のガレージキットは黄色っぽくて柔らかいレジンを使用しており、あらゆる障害がてんこ盛りでした。

「ああ・・ガレキって無塗装でまるで白いキャンバス。シンプルな醤油ラーメンの良さがありますね・・」なんてしたり顔で作り始めてみると、

「はーいガレキ一丁、バリ、気泡マシマシのパーツ抜き、歪みカラメね!!」

って感じで、予想もつかぬ濃いものが出てきて、呆然としてしまったりするわけであります。

ガレキ黎明期は高額なガレージキットを購入しても、ひたすら下地処理と気泡埋めという「貧乏家族の内職ライク」な作業が待っていた。キット購入に金をはたいて貧乏になり、なぜか金にもならない内職チックな苦行を深夜に行うという香ばしいことになっておりましたが、2010年頃からホワイトレジンが主流となり、それまで大量にあった気泡や歪みは過去のものとなりました。

今、15年くらい放置してある古いキットと現在のホワイトレジンのキットの質を比べてみると、素材の進化には目覚ましいものがあるなぁと感心します。

今回の水着フランも仮組みで各パーツを組み合わせてみると、ほとんど隙間なくビタッと合わせ目のラインがかみ合う。熱湯に浸けての歪みの補正なんか全然いらない。硬度も精度も高く色ムラもない。これが初期のレジンキットになると、スカートなんてほとんど合わない。あぶったガラス細工のように縦横無尽に歪んでたりしたんですよね。

イメージ 2
(相変わらず非常に汚い私の仮組み(笑)。軸打ちと組み順とパーツのすりあわせと全体のイメージをざっくり確認することが第一なので、マスキングテープだらけでも問題なし。それにしても素敵な造形であります。)

これに対して、現在のホワイトレジンはパーティングラインと端っこの方にある僅かな気泡を埋めるくらいしかすることはありません。昔は「組むだけなのに大手術」という状況で「えっ??ガレージキット?無理無理!何が無理かってあのアバウトさが耐えられんですわ!」という人も多かったように思います。

「これじゃ存在する意味がないのじゃぁああ~」と絶叫したくなるほどサイズの合わないダボ穴や、受け側が完全に埋まっていてハメようがないなどの「ガレキあるある」が日常茶飯事でしたが、今やダボ穴の精度も非常に高くなりキチチッと気持ちよく入ってくれる。

パーツの精度が高くなったことにより、パーツのすりあわせも非常に楽。特に「おパンツと太ももの接合部がぴったりかみ合ったときの気持ちよさ」というのは、ガレキモデラーとして舌筆に尽くしがたい感動がある。(これは決して私が変態であるということではなく、おマタの接合部分は、接合部分に襟や袖など余計なものがないので、接合部の隙間にごまかしがきかないデリケートな部分なんですよね。)

イメージ 3
(足と胴体の接合部に隙間がなくってビシッと合っている。15年くらい前のガレージキットではこうはいかない。)

このようなパーツの合いの良さって、インジェクションキット(プラモデル)に慣れていると当たり前のように感じるかもしれませんが、ガレキではなかなか得がたいものだったのです。

一方で、こういう精度の高いホワイトレジンを組んでると、昔の黄色っぽくて柔らかいレジンを懐かしく思うこともあります。昔のレジンっていかにもハウスメイドで手がかかりましたが、「これこそ道楽」っていう趣味性が強かった気がします。

昔より今の方がレジンキットのクォリティは高く、パーツの精度やシャープさは比べるべくもない。精度はものづくりの良心であり、販売して金をもらっている以上、キットの質を高めていくことはディーラー側の当然の義務でもあります。だからガレージキット業界は正しい方向に向かっていることは間違いありません。

イメージ 4
(思わず肩を揉みたくなるアングル。うなじのラインがセクシーです。)

でも昔の黄色っぽいレジンに感じた訳のわからない人間臭さは今のレジンキットにはないんですなー。私は「昔は良かった・・・」ということ年寄り臭い懐古主義に浸ってるんではありません。昔は良くはなかった、これは間違いない。でも自分の中で得られていた何かがあったのです。

結局「主観的な要素に依存するものに絶対的なものはない」のです。

受け手にとってそれが正しいかどうかは「主観」で決められることであって、我々の年齢や、生活状況、考え方などによってどうにでも変わる。人の価値観というのはとらえどころのないやっかいなものです。

今流行の3Dプリンターでは人の発想と完成品の間にコンピューターが挟まってくる。コンピューターは整合性のとれないアラを取り去り、揺らぎのないものに仕上げてくれる。製品クォリティもめざましく向上する。しかし、揺らぎのないものが造形物として魅力的か?と問われるとそれは非常に難しい問題です。

そもそもガレージキットってクォリティをいくら上げても、「作り手のクォリティがそれに追いつかないとグダグダになる」ので、塗装済み完成品と違って、そこを突き詰めてもどうしようもないところもある。私のように技術がないモデラーは、塗装も揺らぎまくっているので、多少原型も歪み、揺らぎがあった方がなじみがいいまであったりする。

ちなみに私はデビルマンの頃の永井豪が大好きなんですが、永井豪の絵は人によっては「ド下手」と判断し切り捨てる方もいると思う。

しかし、今のクォリティの高いデジ絵はその頃の永井絵にあった「熱と狂気」には届かない。同様にガレキのクォリティがどんなに高くなっても「邪心セイバーの狂気」にたどり着くことはおそらくないでしょう。

イメージ 5

イメージ 6
(私の崇拝する永井豪の最高傑作デビルマン。綺麗に描こうなんてしていない。歪みを許容し自在に操る。歪みから生まれる異形感と迫力、そこから生み出される絵の勢いが素晴らしい。)

イメージ 7
(私のブログに定期的に降臨する邪神セイバー。私の崇拝する暗黒邪神クトルフ教のご神体です。その狂気とインパクトに凡百のフィギュアは存在感を失う。この味を許容する人と許容しない人で造形の価値観は別れるでしょう。)

ことほど左様に造形物のあり方は難しい。

黎明期のガレージキットはクォリティの低さと引き替えに市販塗装済完成品にはない創造性があって、その部分で明確に市販品フィギュアと差別化できていました。キットの箱を開けた瞬間「こ・・これは、どこから見ても個人製作の少量生産品ですわ!!」と叫びたくなるような、まるで畑から出荷されたこだわり農家の野菜のような特別感があったのです。

でも昨今は市販塗装済完成キットの生産技術、塗装技術がメチャクチャ向上して、創造性もガレージキットと遜色ない。もうフィギュアが欲しいだけなら市販完成品を購入すればそれで十分。

そんな中「わざわざガレージキットを数万で購入して、塗装済み市販品以下の技術レベルで塗装している自分は一体何なんだろう??アホじゃないか???」と自分でも疑問に思ったりする。

でもその疑問を突き詰めていっても答えなんか出ないんですよね。趣味って理屈じゃない。生産性も求めてない。作りたいから作ってる、ただそれだけ。徹頭徹尾主観的なんです。人にとっての正義が自分にとっての正義じゃないし、成功しようが失敗しようが、自分が作るガレージキットの審査員は自分だけ。

「人の評価や物差しで自分の価値まで決められてしまいかねない」この世の中で、それはとっても素敵なことだと思うわけです。