ハーレーのダイナで峠をのんびり走っていると、私や車をブチ抜いてスーパースポーツ達が走り去っていきます。80キロで「はにゃ~ん」と流している私のハーレーを100~120キロくらいでチギり散らし、気持ちよさげにズバッとコーナーに入っていく。

以前なら「ウキーッ!!カカカカ!!」と妖怪ぬえのような奇声を上げつつアクセル全開にしていた私ですが、ダイナじゃまぁ性能が違いすぎて勝負になりません(笑)。

「おお、若い!血気盛んですな!!」などとも思うわけですが、この中にはいい年のオヤジさんも含まれており、中国武将の黄忠のように「老いてますます盛んなのじゃ~!!」という人も目につきます。

私も若い頃は革ツナギを着込んで峠を攻め、刺さり型、滑り型、両者リングアウト型など、あらゆるバリエーションで「大地母神への五体投地」を決めまくってきました。文字で書くと何かコミカルですが、事故もトータル9回となると、これは生き地獄以外のなにものでもない。「事故の神に愛されつつも死神には嫌われる」というなんとも懲りないバイクライフを送りつつ今に至っています。

今はもう公道レースから引退し、こんなブログを書いて「ただの場外アナウンサー兼コメンテーター」みたいになっておりますが、ある程度の年齢で大型デビューをした方であれば、「まだまだ現役!バイク乗りとしての旬はこれからヨ!」という方も多いのかもしれません。

小僧であるとかジジイであるとかは別にして、峠でアクセルワイドオープンの熱い走りはそれなりにリスクも大きい。F6Bで信州へ行ったときもバイク事故でドクターヘリが出動していましたし、ドカやニンジャが路肩でひっくり返ったり、道路外へ吹っ飛んでたりする光景もそれなりに見ています。

バイク事故を目撃すると、車に乗ってるドライバーの方々は、「ああ?またバイクか?どうせメチャクチャ飛ばしてたんだろ?本当にモラルがない奴らだ。まさに自業自得だ・・」と結論づける人がほとんどだと思います。

たしかに一部のバイクは車に比べて圧倒的に速い。どれくらい速いかっていうと、シグナルダッシュだけならポルシェやフェラーリの最高モデル並に速いのです。そんなポテンシャルを持っているバイクがミドルクラス、リッタークラスにはゴロゴロいる。

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(超絶パワーウェイトレシオのCBR1000RR。加えてこのコンパクトさ。公道ではほぼ無敵でしょう。)

ホンダのCBR1000RRを例にとりますと、エンジンパワー192馬力。んで、車重は195㎏しかない。1㎏あたり約1馬力。ハーレーのダイナなんて300㎏で50馬力程度ですから、CBRどんだけ軽いのよと。リミッター外せば時速280㎞程度までは頭打ちになることなく到達するでしょう。しかも、その最上級版SPモデルが僅か240万円。0-100はなんと3秒です。車でいうとフェラーリF50の0-100がそれくらいですので費用対馬力はとんでもない。

そう考えるとバイクってクッソ安いです。特に高性能側に振れば振るほど同レベルの加速力を持つ車に対して安くなる。しかも軽いので止まるわ、すり抜けるわ、曲がるわで公道ではまさに無双状態。戦闘力があり過ぎて法定速度だと「シニアカーに乗っている」ような気分になるはずです。

一方、車はどんどんエコ仕様となって、スピードより燃費と安全性が至上命題になっている。車社会がそういう方向に流れていったため、「バイクは現代の交通事情になじまない」というレッテルが貼られつつある。仮面ライダーが車に乗ってしまったときは、「ああ、ついに仮面ライダーからも見放されたか・・」と暗澹たる気分になりました。

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(車に乗るマスクマンといえば、仮面ライダーではなく超人バロム1を思い出します。バロム1のオープニングを深夜ラジオで初めて聞いたとき、その衝撃は凄まじいものでした。「ブロロロロー」「スバババババーーン!」の破壊力でまったく寝付けなかった。ちなみにこちらが問題の主題歌「ぼくらのバロム1」。決して公衆の面前で聞いてはいけない。)

一昔前に比べると公道はとてもおとなしい空間になり、ドライバーから見れば速いバイクは非常にはた迷惑な存在に映っているかもしれません。しかし、これは必ずしも車のドライバーがおとなしくて、バイク乗りが血気盛んということを意味していないと思ってます。

試しに、今町中を走っている軽自動車やミニバンをすべて、「ポルシェターボ」「GT-R」「フェラーリ」「ランボルギーニガヤルド」に取り替え「ガソリンは一律リッター30円。事故しても30万円ですべて修理しま~す。ひはは。」というオプションをつけたら、車のドライバーはどれだけ自制ができるでしょうか?絶対できるはずがない。

「ヒャッハー!」と叫びつつアドレナリン全開で暴走を始め、公道の光景は間違いなく一変するでしょう。豆腐屋だってチューンしたハチロクをあてがわれれば峠でケツを振りながら配達するようになるわけですから、人は経済的事情から自由になれば、高性能の誘いには抗しきれないと確信してます。

要は車は自制する必要がないほど牙を抜かれ、バイクは自制できないほど小回りがきいて速いのです。

牙を抜いていくだけでなく、車社会は超高性能車を手に入れにくい状況を意図的に作っています。パワーが突出した車は新車価格や維持費、修理費、保険料が異常に高く、得られる刺激とコストの費用対効果が全然バランスしていないから販売台数は伸びないし、購入しても公道でそう簡単にアクセルは踏めないようになっている。

結局車社会は「誰でも超高性能車を買えますよ!」と表向きはいいながら、価格でほとんどの乗り手をふるい落としているんです。自由があると見せかけつつ、実際はブルジョアジー以外は真のパワーを体験することなどできないようになっている。

一方バイクはそのハードルが車に対して異常といえるほど低いです。誰でも頑張ればトンデモ性能のバイクを手に入れることができますし、コカしたって修理費もなんとかなるので、アクセルも開けやすい。

ぶっちゃけ、サーキットでタイムを削ろうとするようなバイクを公道で乗れば公道がサーキットになってしまうのは当たり前なんですよね。メーカーがそれを「公道でも走行可能な市販車でぇす。」と八百屋に並べるようにしてフツーに販売しているから、みんな大まじめでサーキット性能のバイクを公道で躾けようとしてます。でも、延々ピットロードを走っているような公道の速度域では、乗り手に欲求不満とストレスがたまってくるのは必然なんです。

そういった事情を棚上げして、すべてを「バイク乗りのモラルの問題」と、結論づけてしまうのはいささか乱暴ではないでしょうか。

「それじゃ乗り手を煽りまくるスーパースポーツをこの世からなくしちゃえばいいよね?」というとそれも違うと思う。同じ理屈なら、「ポルシェやフェラーリ、GTーRなどもすべて販売中止にすべき」という結論になりますが、それじゃ選択の自由を放棄した、ただの管理社会です。

私はひたすらにリスク管理を推し進めつつある今の社会の中で、バイクはいろんな選択肢を自由に選べる希有な環境にあると思っています。確かにバイクでの高速機動は常に大怪我や死と隣り合わせですが、それはリスクとスピードコントロールを徹底的に乗り手にゆだねるという「自己責任の原則」の結果であり、それでこそ機械と人は真剣に向き合い、成長し、お互いの存在のあり方を考えていくことができるのだと思っています。

だから私は公道では過剰性能で不要だと言われようともスーパースポーツのある世界を許容し、その存在意義を肯定します。

たとえ、どんな結果になったとしても、人が人らしく生きるために自由意志は取り上げてはならないものです。バイクで人が亡くなれば世の中はいろいろとバイクを叩く。人の死を前にして、その気持ちはよくわかる。しかし、バイク乗りはどんな悲惨な事故に遭遇しようとも、バイクを決して降りません。だから「乗るな!」というのは解決のようでいて何の解決にもなっていない。

「大排気量バイクで暴走する事故が多いなら、免許を与えなければいい。」それが限定解除という究極の悪法を導入した過去の日本の考え方でした。規制によって真の問題に向き合うことなく、そこから目をそらしたため、何の解決も得られなかった。

グランドキャニオンでは毎年数多くの人が転落事故で亡くなっています。1800メートルの断崖絶壁なので落ちたら即死。日本的な発想ならきっと崖から数メートルの部分を立ち入り禁止にしてしまうのでしょう。でもそれでいいのでしょうか?アメリカやカナダは決してそうしない。それは人の自由意志をどう考え、その結果をどうとらえるかによるのだと思います。

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(府中の大型二輪試験場。当時は教習所では大型が取れない時代だったので、私はここに通って限定解除しました。試験は落とすためのもので、ほぼ門前払い。免許がないとそもそも大型乗れないので実技を練習するには教習所が必須」なはずなんですが、その機会も与えず一発試験という理不尽さ。アメリカから「こんなの免許制度の名を借りた単なる不当規制でしょ??バカなの?」と言われ、合理的な言い訳もできず、あっさり教習制に移行しました。ホント馬鹿。)

アメリカはバイクに排気量規制などすることなく、バイクと向き合い、「大排気量なのに極めて遅い」ハーレーというバイクを生み出しました。一方、日本は400ccに排気量を規制をしたが故に、その上限での性能競争に邁進していった。安全だと設定されたはずの枠の中でどんどん尖っていってしまったのです。軽量とパワーを追い求めた2ストレーサーレプリカ達は高回転高出力技術を極めた最高の仕上がりでしたが、その反動で下はスカスカ。出力特性はピーキーで多くの死者を出しました。

どうもこれではうまくないと気づいた行政が次にやったのはさらなる馬力の上限規制でした。ではそれでバイクは危なくない乗り物になったんでしょうか?そんなことはない。

馬力規制を導入し、パワーに蓋をしたがために、ライダーは蓋の向こうにあるまだ見ぬ領域に対して飢えを感じる結果になってしまった。それはバイクに乗らない人の理屈で勝手に振りまかれた「呪いのようなもの」だったと思っています。

枠にはめるだけでは人の心を変えることはできない。パワーに向き合うことを拒絶し排気量規制という安易な責任逃れに逃げ込んだ行政とメーカーは長年の間、脳死状態に陥った。そして今、規制緩和の流れの中で、これまでの解決手法は瓦解し、そのあり方を再構築する必要に迫られている。

強大なパワーを許容するのかしないのか?それを広げていくと、結局は社会と人とバイクのあり方、責任のあり方をどう定義するのか?ということに繋がっていきます。乗り手とメーカーがスピードという魔物と真剣に向かい合い、何が正しいのか?どうあるべきなのか?ということを問い続けなくては文化は深まっていかないし、真の解決にはたどり着けないのではないでしょうか?

速さを手なづけるには「なぜ高性能バイクを買い、スピードを出すのか?」という人の内面に踏み込まなくてはならない。その解決困難な命題に挑戦し続け、パワーに対する憧憬と、スピードという魔物、人の心の相関関係を理解しないと「パワーがあるけど安全なバイク」は作れないと思います。

何で私がこんなことを書いたのか?それは私自身が400ccという強制された枠の中では、何も見いだすことができなかったからです。限定解除し、青天井の暴力的なパワーを体感してようやく、「ああ・・パワーがないってこんなに楽しいことだったのか・・125ccって素敵だな・・。」と気づくことができた。

しかし、人は青い鳥をさんざん探した後ではないと身近な幸福の存在には気づくことができません。だからこそスピードを求めた旅の到達点であるスーパースポーツを否定するのではなく、それを肯定した上でそのあり方を問い続けていく必要があるのだと思っています。