2017年、2018年をもって私の乗っているバイクが次々と型落ちとなりました(笑)。

①2017年新型ソフテイルが発売されてダイナがソフテイルに統合。
②2018年新型ゴールドウィング発売。

以上のように私が所有するバイクがフルモデルチェンジして新型となったわけですが、「まぁ当たり前のように来るべきものが来た」わけです。

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(私の所有バイク。グロム以外はめでたくすべて型落ちとなりました。)

「あえていおう!型落ちモデルなどチンカスであると!!」・・とギレン・ザビのカス演説のようにアジる人もいるでしょうが、私の中ではちょっと違います。そもそも現行モデルだけが大正義であれば、この世から旧車は消えてなくなってしまうでしょうが、道の駅で見るのは新型よりも古いバイクの方が多いのが現状です。

それは何故かなのか?私は「旧車には現行車にはない独自の価値がある」からだと考えてます。当然デメリットもあるのですが、デメリットより価値の方が大きいから旧車が売れている。旧車の最大のメリットは「既に第三者による評価が定まっている。」ということです。普通は安いことが中古の存在意義なのですが、旧車はモデルによっては新車より高くなってしまってる。それは「定まった評価が新車を上回っちゃってるから」です。

「評価が定まっている」というのは、旧車がバイクの歴史に組み込まれ、世の中がどう動いてもその立ち位置にほぼ変化がないという意味ですが、これは非常に大きい。中古屋はこれを利用して食っている。

現行車は新型モデルが出ると、その瞬間に型落ちになり、最新型という立ち位置を失います。よって新型の好き嫌いは別にして旧モデルのオーナーは「型落ちになってしまった」ことに一抹のさみしさを感じることは否めません。自分のバイクは何ら変化がないのに、新型の登場によって何か色褪せてしまったように感じてしまうのです。

しかし、これは消費型の社会で暮らしている以上当たり前の感覚。

消費型経済というのはその宿命上、「新しいものに最大の価値」を設定しなくてはなりません。要は新しいものは旧型に対して「常にイキれる」構図になってる。これはバイクだけでなく、あらゆる商品全てにいえる普遍の原理で、その理由は簡単。「新しいものに付加価値を与えなければ新たな消費が生まれない」からです。


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(かなりサイコな2台。右がF6Bで左がダイナ。液タブなのであっという間に描ける。でもブログのためにあたふたと書き下ろしているので、線が荒いのは勘弁して下さい。)

市場は新しいものに何かしら価値をプラスしてモデルチェンジする。これにより、新型モデルは型落ちモデルより上位のものとして位置づけられ、商品も売れるし、消費を続ける人が最も進化の利益を受けられるという「WINーWINの関係」にあるわけです。

しかし、旧車はそのような消費型の価値観とはまったく異なるところにいる。旧車に
は、歴史という特殊な価値がついていますので、どれだけ古くなろうと新しいモデルによって価値が上書きされることがありません。性能が価値基準では無いので、ヤレてきても公道走行できるレベルの性能を維持できればいい。メーカー間の価格競争もなく、タマ数も徐々に減っていくので、古くても値が下がるどころか、希少性による価格上昇効果すら見込めます。

さらにバイクでは新型への付加価値が頭打ちしているという事情があります。

バイクに旧車が多いのは、バイクに限っては「旧車で十分」だからです。これが車ですとモデルチェンジを繰り返すことにより、燃費が良くなり、静かになり、快適になる。それらはモデルごとに大きく進化しており、乗り手のメリットとしても明確に享受できます。だからこそ20年落ちの車に乗るのは非常に難しい。

いくらデザインやスタイリングが良くてもこの炎天下、エアコンも効かないような車に乗ってれば、家族から「いい加減にしろ!!今時ガラス張りの中でエアコンないとか、ビニールハウスか!メロンか!!コルホーズか!!!」などと罵倒されるのは必定です。

一方バイクはどうでしょう。古くなって故障が頻発し、入退院を繰り返すことになっても、日常生活には特段困らない。快適性を向上させようにも乗り手がむき出しのバイクでは、過度の快適性などハナから期待できない。燃費はもともと優秀で、経済性が高いのでそれが選択肢の最上位に上がることはないし、家族も興味が無いので口出しなどしてこない。走行性能は日々向上していますが、公道使用では何十年も前から「これ以上の性能は必要ない」レベルに達しています。

私は意味も無く大型バイク歴が長いので、現在旧車として高値がついているバイク達(カタナのアニバーサリーや900ニンジャ)が新車で買えた時期を体験してますが、それらのバイクと当時販売されていた他の大型バイクを比べた時、性能的に他のバイクが負けていたわけではありません。

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(名車カタナ。これは400cc。カタナではこれが一番出来がいい。漫画「ばくおん」でどんなにネタにされようが、バイクとしては1100カタナより絶対こっちがお勧めです。欠点は本来イキれるモデルのはずなのに1100があるせいでイキれないこと。イマイチ売れなかったのもそこに原因がある。でも「そんなの気にしねぇ!柳の下のドジョウはいなくなるまですくう。400ccカタナこそスズキの商魂だ!!」というスズキ愛に満ちた人には実に良いバイクです。)

では他のバイクになくて、カタナや900ニンジャにあったのは何だったのか?それはストーリーという付加価値です。カタナなんてタダでさえ格好いいのに映画や漫画、TVの影響でさらに人気が加速して、もう幻想種になってます。1100カタナを格好良さ度外視で冷静に見てみれば、ダブルクレードルの空冷バイクでフロント19インチ。速い要素などどこにもありません。このように旧車は性能以外の「形のないもの」に大枚を払っているといえますが、それが消費者の満足感には一番大事なことなのです。

やっぱり「値段の高いもの」は他人からうらやましがられてイキれないと売れません。「ゲスい」と言われようがそれが真理です。バイク好きや好事家から「素晴らしい、伝説のバイクだ。」「このバイクいいですね!」と賞賛されるということは、どんな高性能よりも所有欲を満たす源になる。

私も昔はこういう市場評価にどっぷり浸かっていました。でも今はスタンスがちょっと違う。ある時期から「ものの評価を第三者に委ねるのではなく自分で定めよう。」と思うようになってます。それほど、この世は「ウソでないけど過度に誇張されたもの」が多すぎる。第三者の評価を否定したいわけではなく、それはそれでおいておいて、まずは自分の評価軸でものをとらえないと「自分にとっての価値が何も見えてこない」という当たり前のことに遅ればせながら気づいたのです。

しかし、昔はそういう風に全然考えられませんでした。人の意見で、あっちにフラフラ、こっちにフラフラ、ここに至るまで消費に費やした傷口は極めて深い・・。結局、バイク乗りがコケながらバイクの真実を知るように、自分の基準軸って「いろんなモノに消費しまくって、失敗し、多くの血を流し、破産しかけて、達観した末に見つかる」ものなのだと思います。

「ガメラだって血を流したのです。」という名台詞にあるように、血を流さなければ得られないものがあるわけです。

私の中で今乗っているバイクの価値は「自分で評価し、自分で定めたもの」であり、新型モデルや市場の動向に左右されて揺らぐものではありません。新型が出たところで旧車と同じく、自分の中での価値の上書きはほぼないのです。

というわけで、私は今のところ、自分評価が定まってる型落ちの2台にまだまだ乗り続けるつもりでいます。「つまらん!新型買わねぇのかよ!!」という方もおられるかもしれませんが、北陸じゃホンダの新車買えなくなっちゃいましたから、GLについてはそれ以前の問題です。ホンダに勘違いして欲しくないのは、長期的に見て「販売側が消費者側より立場が上になることなど決してない」ということ。このツケはいつか必ず払うことになる。私は自分の地域を切り捨てたメーカーからバイク買うほど、お人好しでもないので、当分ホンダはないですね・・・。

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(北陸にはホンダドリームがなく、ホンダはドリーム店にしか中型以上は卸さないそうなので、石川ではホンダの中型・大型は買えません。私は今のところハーレー以外の所有バイクは全てホンダですが、ないならないで買わないだけ。他県まで行ってホンダを買う理由がありませんし、それでこちらも困らない。)