ハーレー専門の月刊誌にはいろいろありますが、その中でも特に濃いのが「バイブス」です。何が濃いって、表紙からして濃い。この雑誌の表紙を飾っているのは毎号カスタムハーレーと露出の多いグラマー美女です。

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(典型的なバイブス表紙。今時いろいろ批判的な意見も寄せられるでしょうが、創刊号からこの路線を貫いているのは根性があると思います。)

「カスタムハーレーの写真だけで十分なのでは?」と私は思ってるのですが、毎号露出の多いグラマーな美女が表紙に登場しており、書店のバイク雑誌の中でも異質な雰囲気を漂わせております。創刊してしばらくは「袋とじのヘアヌード」まであり、「アメリカ人はバイク雑誌にこういうものを求めるのカ?」とカルチャーショックを受けた記憶があります。多分「バイクに乗る」ということと「女性に乗る」ということを「男らしさの共通のメタファー」として表現してるのかもしれません。まぁいずれにせよ、ここに出てきている女性は私が描くような「バイクの擬人化」ではなく、がっつりリアルな「性の象徴」であることは間違いないでしょう。

でも、このご時世にこんな風俗雑誌のような表紙が生き残っているのは奇跡のようなものかもしれない。今やバイクは男だけの乗り物ではなく、あらゆる層に訴求するべくアピールしている。全体的に安全志向になり、女性用のバイク雑誌も創刊されたりして、女性ライダーも随分増えたのではないかと思います。(ちなみに私の妻も中型免許を持ってます。)

私は恐妻家なので、女性ライダーにこういう性的アピールは求めていないし、そんな従順な女性は同世代では存在しえないと思ってる。表紙のカスタムハーレーは現実ですが、そこに映り込む男好みの女性は私にとっては「完全なる幻想種」なのです。

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(ブログの内容にちなんで、こちらは私の描く擬人化ダイナのお色気路線。甘い理想と厳しい現実を対比してみました。いつも白黒ばかりじゃ芸がないので、今回はこれに色を入れてみようと思います。)

書店に並ぶバイブスを見るたびに、「女性のバイク乗りたちにこの表紙は普通に受け入れられてるんだろうか?」と遠い目になってしまう。まぁ編集部は昔のピンナップのパロディ的な感覚でやっているのかもしれませんが、案外ガチの可能性も捨てきれない。

もし私が奥さんに「おい、ボンテージを買ってこい。そして俺のハーレーの横で悩殺ポーズをしてみせろ」と命じた場合、瞬時に奥さんのこめかみにポパイの血管のような青筋が走り、「性格の超絶不一致と夫の異常性癖により長期の別居期間に突入」などという終末感漂う惨事になるおそれがある。

今の世の中、女性にエロい格好をさせるのなら「翌月号は男もフンドシやブリーフ一丁で、バイクと共に表紙に収まる」くらいの覚悟が必要です。女には求めるけど男は決してやらないという姿勢は、男女平等の世の中ではもはや通用しない。

「裸の男がポージングする雑誌なんて厭すぎる!手に取るのもいかがわしいだろ!!」と男が主張しても「あなたがうれしげに読んでる雑誌の表紙も女にとってはサブイボなのよっ!あえて言わないけどねっ!!」と返されるとどうにも逃げ場はない。「男がやらされて厭なことは本来女性にもやってはいけないよね・・」という当たり前のことをあらためて突きつけられ、二の句が継げなくなるわけです。

「そうはいってもエロもバイクも昔から男らしさの象徴でしょ?ワイルド7の飛葉ちゃんとか格好いいじゃん。」という意見もあると思います。しかし我々40代に求められる男らしさってなんなんでしょうか?若い頃はスポーツや勉強、あらゆるものに勝ち負けや点数があり、「成績がいい者が優れている」というはっきりとした評価軸があった。だから常に優秀な人間が判定できて、そういう若者は自然にモテた。

しかし、歳をとると自らの能力の証明が非常に難しくなる。「この世に単純な勝ち負けなどない」ということもわかってくる。優劣の概念が複雑になりすぎて、自分が特別であることの証明ができなくなるのです。そんな中で自らの特別を証明するために、わかりやすく一般ルールからの逸脱度を「男らしさ」「強さの象徴」と定義し、爆音を響かせつつ暴走してしまったりする。その気持ちはよくわかる。私も昔そうだったから。でも、こういうことって40代に許されるのか?
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(とりあえず、適当に色を入れてみました。だいたいこれでレイヤー5枚くらいです。レイヤーっていうのは模型でいうとクリアー色を重ねて下地の色を生かしながらの塗りのようなモノでしょうか。模型と違って何度でもやり直しがきくのはデジ絵の良いところ。)

私の大好きだった尾崎豊は15の夜で、「盗んだバイクで走り出す・・行く先もわからぬまま・・」と心の叫びを歌いました。しかし、この歌詞は「15の夜」というタイトルだから許されるのであって、「40過ぎの夜」だったらかなりキツい。

15歳の場合

 盗んだバイクで走り出す
→金も権力もなく、大人の都合で自由すらも奪われた若者の叛逆

 行く先もわからぬまま
→束縛の中で未来への可能性を摘み取られ、ただ前へと進む衝動の具現化

40過ぎの場合

 盗んだバイクで走り出す →窃盗犯

 行く先もわからぬまま  →若年性認知症

このように同じことをしても社会の評価は天地ほども違う。我々中年は「社会における40代を見る目は極めて厳しい」という悲しい現実を心に刻まなくてはならない。私も「男としての生活力にまったく自信がない」から、せめて「男らしく見えること」に必要以上にこだわっていた時期があります。

でも振り返ってみれば周囲の人たちは私に「男らしさ」なぞ全然求めてなかったわけで、自分だけが「なんとか男らしく、格好良くならんものか」と空回りしていたに過ぎなかった。そして40代にもなると「何も求められていない」「興味すらもたれていない」という悲しい現実を直視する。

しかしそこで足掻くことなく「自分はそもそも自分以外にはなれないわ」とあっさり認めてしまえば、人はきっともっと楽に生きられる。男としての魅力を失いつつある40代の足掻きなど、女性にとってはあきらめが悪くうざいだけかもしれないと思い直してみる。そう考えると男らしさという言葉自体、男にかけられた曖昧な幻想であり呪いのようなものであって、老いつつある生命体にとって、「男らしく生きろ」っていう漠然とした言葉は背伸びを強要する束縛でしかないような気もしてきます。

強く心に刻まれた概念は時として客観性を失わせ、人をその中にとらえ縛ろうとする。それは「女性への配慮」という視点を「男の都合で消し去った」バイブスの表紙とある意味共通しているように思えます。最初にことわっておきますが、私はそのような価値観を一概に否定してるわけではありません。雑誌などある意味虚構であり、やりたい放題でもいい。だって「嫌なら買わないという自由」がある。ただ、リアルな世界では「嫌だから逃げる」という自由はないことが多いので、人の嫌がることはやらないという常識的な配慮がどうしても必要になる。だから、虚構の世界とリアルな世界の距離感は常に認識しておいた方がいいと思うのです。

昔バイクのライディングで「膝スリ」なるものが流行ったことがあります。多くのライダーが膝スリにあこがれ、奥多摩などでフルバンクしていました。しかし何度も転倒を繰り返し、サーキットなどでも走るようになると「公道走行で膝スリなど単なる曲芸」「運試し以外の何ものでもない」と気づく。しかし、そんな無意味な「命をかけた曲芸」が雑誌で持ち上げられ、それを真に受けて大ケガをし、バイクを降りた人も身近にいたわけで、こういうものを「人を狂わせる呪い」といわずしてなんというのか?さんざん煽っておいて「真に受けたお前が悪い」といいきるには結果があまりにも重すぎる。

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(アメリカ的配色の背景をつけて完成。まともに色を塗ったのは今回が初めてかも。これから少しずつ練習していきたい。ちなみに漫画は書き手が好きなように描けますので、まさにやりたい放題の世界ですがリアルで女性にこんな格好を要求すると2分くらいジト目で凝視された後、社会的に抹殺されるので注意が必要です。)

まれに検証されることもなく、正しさの裏付けすらない固定化された概念が人を強烈に縛ることがあります。大量消費社会は消費させることで社会を維持していますが、消費のために人を操るには、なんとなく魅力的だけど何一つ明確な根拠のない漠然とした呪いを人々にかけるのが効果的なのです。そういう呪いはかかっているうちはとっても楽しかったりして最高なのですが、それに深くハマりすぎると人生が曲がっちゃったり、社会から乖離していく悪性腫瘍に変化する。

「自分を縛ろうとする概念を常に検証し、支配されることなく、一定の距離をを保ち続ける」という能力は、欺瞞と呪いに満ちた大量消費社会を生き抜いていくには結構大事なスキルだと思ってます。

40代は、15歳とは違う。何度もつまづき転んでは起き上がり、社会というモノのからくりが少しばかりわかりはじめてる。なんせ15歳より25年も余計に生きてるのですから・・・。バイクなら25年も乗ってればもうベテランの域。若い頃のように身体能力を生かした過激な走りはできないけれど、そこそこのペースで走ってもそう簡単には転ばない。

生き方だって似たようなものです。バイクと人生は結局何も違わない。

この世の障害から距離をとりつつ、欺瞞に満ちた世の中を自分基準で評価しながら受け流し、または受け入れつつも生きていく。それが「15の夜」を越え、夢見る頃をも過ぎた「40過ぎの夜」ではないか?そんな風に考えたりするのです。