今回も新型ゴールドウィングの搭載機能について、私なりにあらあらと語っていきたいと思います。前回のブログを含めて完全な私見です。
 
多くの方にとって、私の意見など、参考になることは1つもないと思います。なぜなら、私はそもそも根本からこじれてます。消費行動というのは理屈ではないので、多くの欲望と、金銭的な問題、見栄、プライド、その他いろんなものが入り交じり、それがどーんと盛り上がって初めて楽しめるものです。しかし、私はいろんなものを失っているので消費者としてのレベルが低いんです。「うぉースゲー」って簡単には思えないから、頭の中で訳のわかんない分析をはじめる。
 
だから、私が何を書いても、「ゴールドウィング、スゲーっ、最高!欲しすぎる!!」と思えば即買えばいいわけです。消費なんて経験ですから結局そういう人が勝つ。消費で何が偉いって身銭を切って買う人が一番偉い。ああだこうだいって買わない人間は「うりゃー」と買う人には絶対勝てない。失敗しようが満足しようが、消費者は消費して初めて消費者たり得るのであり、消費しない人間は単なるエセ評論家です。
 
あとバイクは趣味であって軍事用の兵器ではなく、人生を楽しむためのツールなんですから、性能なんてある意味どうでもいいのです。価値観が変わった挙げ句、バイク変態と化すとダメ性能が逆に刺さることもあったり、自分が欠点だらけだとふと気づいたとき、高性能なバイクが急に重荷になって、余計なモノを脱ぎ捨てて肩の力が抜けたバイクが欲しくなったりもする。バイク人生の最後にカブに行き着いた人の気持ちって、そういうところなのかな?とふと感じたりもしてます。
 
まぁ、それはさておき、今回はDCTの考察です。新型の試乗記はDCTモデルに偏っており、高評価のようなので、おそらく良くできているのだと思います。


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(DCTの透視図。これまで人間のやっていたことを人間がやっていた以上にこなす。いわばクラッチからの解放です。人はバイクにどこまでのことを求めていくのか?取り回しを機械が補助し、クラッチ操作も機械に任せる。しかし、その考え方をどんどん進めていくと、そのうちアクセルやブレーキやバランスすら機械が制御し、やがて行き着く先は自動運転になる。我々バイク乗りが何をどこまで望むのか?それは我々自身の問題です。)

現在の技術をもってすればイージーライドならマニュアルミッションよりクラッチレスのDCTに間違いなく分があります。また変速スピードなどの点でも常に最適な変速動作を行うDCTにアドバンテージがある。つまり、性能面でマニュアルトランスミッションを選ぶ意味はほぼありません。
 
今のところマニュアルの方が安心かな?というところはUターンなどの低速取り回しでしょうか。特に重量級バイクでの低速制御は駆動力のコントロールがかなりの部分を占め、日々低速Uターンを多用している私はその点すごく気にかかる(車庫入れの時にはUターン後に停車して尻から入れてるので・・)。シャフトドライブで低速ナーバスなゴールドウィングだと、半クラッチを使ったトルクコントロールができないDCTは試乗して低速Uターンを何回かしてみないと選択にあたっての不安が消えませんが、多くの人がDCTに乗っている今、それも単なる慣れの問題なのかもしれない。
 
また、DCTはホンダが100万円以下の車種にも採用している機構であり、今更出し惜しみするようなデバイスでもないと思うんですが、ゴールドウィングではなぜかハイグレードのツアーのみの専用搭載ということになっているのはなぜなのか。廉価グレードのバガースタイルでも273万円と超高額なゴールドウィングにあって、なぜ全てのモデルでDCTを選択できるようにしないのか?その理由がちょっとわからない。現状はエアバックと抱き合わせにする機構でもないと思ってます。

生産性の問題なのか、販売戦略上の差別化の問題なのか、初期トラブルなどの信頼性の問題なのかはわかりませんが、ちょっと釈然としないところはありますね。

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(画像がないとさみしいので最近のツーリング写真から。ふらりと立ち寄った海沿いの公園。)
 
搭載されたDCTは第3世代ということで、ほぼ完成の域に達しているマニュアルトランスミッションに対し、その信頼性も非常に気になるところです。機械モノは部品点数を多くして複雑にすればするほど、トラブルが起きやすくなる。DCTはまだ歴史が浅く、耐久性や整備面の検証が十分できていない状況であると思ってます。おそらくゴールドウィングクラスになると整備費は「お腹押さえてマウスピース吐いちゃう」くらい高いと思うので、長く乗る人や「結構シゴクぞ」という方はマニュアルの方がランニングコストの読みができるかもしれない。今後白バイなどにDCTが採用されたら私もDCTの信頼性に太鼓判を押すことができるでしょう。
 
まぁ、以上に述べたような機械的な問題もあるのですが、しかしこれとは別に、「技術革新による一定以上の支援機能に私自身がある種の強い抵抗を感じている」という私の内面の問題があるのです。ハーレーのウルトラにはそんな機能は今のところ一切搭載されておりませんが、この点について、私は「ウルトラの方が好ましい」とすら思っています。
 
その理由は「バイクというのは矛盾を秘めた存在だから魅力的なのだ。」と心のどこかで定義しているからでしょう。私は26年前、パワーを求めて限定解除し、NSRからCBR900RRに乗り換えました。当時は250ccのNSRでも実馬力60位は出ていて、それ以上のパワーは公道ではまさに無用の長物。当時のリッターバイク乗りの間でも「街中では超軽量のNSRが最強でしょ。」と言われていたくらいでした。
 
そんな中で大排気量バイクに乗る意味というのは結局は最高速、超高速域へのあこがれだったわけです。常識的な速度ではなく、自分が過去経験したことのない非日常の速度域へ。
 
苦労して限定解除し、大枚をはたき、それと引き替えに命の危険を際限なくベットしていく。多くのものを犠牲にしてまでハイリスクを背負い込み、その快楽に酔う死狂い、賭け狂いの破滅主義です。実際、事故で破滅した人もいたし、この世を去った人もいた。私も友人の葬儀で泣き崩れましたが、その翌日には第三京浜にいた人非人です。

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(雑木林を歩いて行くと、急に視界が開け、海に出ました。)

改心し、歳を食って絞りカスのようになってしまった今でも「バイクで必要以上のモノを求めることはハイリスクと引き替えである」という感覚がどこかにあります。バイクは負担なしにはパワーも快適性も手に入らない。全てがむき出しのバイクにおいて、不必要なスピード、パワー、重量を背負い込むことは、イコール事故や大怪我、立ち往生のリスクを増やすことであり、その覚悟と引き替えに、求めるものを手に入れていくのがバイクなのだと頭のどこかで考えています。

「あらゆるものが金さえ払えば安全に手に入れられる」この世の中で、「欲しいものを得るために、生身の人間がハイリスクを背負う等価交換の原則」がバイクにはまだ残ってる。だから、バイクの前では年収3000万円の金持ちも時給900円のアルバイターも何の差もない一人のバイク乗りになる。大金持ちだろうが貴族だろうが、王様だろうが立ちゴケすれば自力でなんとかしなくてはならない。誰も助けてくれない。リスクにただ一人で向き合わなくてはならない。私は人から権力や虚飾を強制的にはぎ取って、バイクの運転技術という真実を残酷にさらす、この等価交換の原則をどこか好ましく感じているのです。
 
だから、「超重量級バイクから可能な限り不安を取り去って、女性にでも初心者にでも扱えるようにしよう。」という気遣いを、「余計なもの」「無用なもの」「バイクの価値観を変えてしまうもの」と感じてしまう。重いバイクの取り回しが大変なのは当たり前のことで、それを取り去ってしまい、「ローリスクであらゆるものを手に入れよう」という発想は、バイクを孤高の存在から普遍的でつまらないモノに変えてしまう、甘い毒のような気がするのです。
 
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(結局、日が沈むまで、そこでぼーっとしてました。風は冷たく、潮風で顔がパキパキになりますが、それと引き替えの美しさだから価値がある。また、バイクでやってきたからこそ心に刺さる。バイクは苦労しただけ感動が増す素敵な乗り物です。)

また、四輪に対し積極的なコントロールを求める二輪において、バイク任せのイージーライドを必要以上に突き詰めていくことにも疑問符を感じています。実際自分はこれまでロングツーリングで、「アクセルをひねる右手の握力が落ちてきて、筋も張ってきた・・。これはしんどい・・もう歳じゃ・・ヒィィ・・」と感じたことはあっても、「ああDCTだったらクラッチがなくて左手が楽で良かったのに・・」と思ったことは一度もないのです。(これに対して、高速で右手を休ませられるオートクルーズは欲しすぎる!と思ったことが何回もあります。)
 
「バイクは前にしか進めない。人生と同じで決して戻ることはできない。」という名言がありますが、誰が考えたって乗り物はバックできないよりできた方がいいに決まってる。しかし、その不便さを受け入れることでバイクという乗り物が定義されている。だから「重量級のバイクで何かを得たいなら、その重量を受け入れるべきだ」という考えが自分のどこかにあるのです。

「求めるのなら覚悟するべき。」今の私はどうしようもないヘタレなバイク乗りですが、人によっては邪魔なだけのこの「等価交換の原則」を、「バイクの持つ原始的な哲学であり、最大の魅力」だと感じているんだと思います。