今回は性能数値に現れない「ゴールドウィングの美点」についてです。

美点って言っても「この値段のバイクに美点は山ほどないとおかしいだろ!!」って突っ込まれるかもしれません。まぁ、消費者の正義からすればそのとおり(笑)、返す言葉もありません。

ちなみにゴールドウィングの欠点は、「高価、糞重い、超デカい、整備性最悪、金食い虫・・・」とほぼ見た目た通りです。しかし、このブログでは、それらの「欠点と引き替えに得ているもの」についてちょっとばかりインプレしたいと思います。

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(F6B。マフラーにヤマモト管が入っている以外、ほぼノーマル。)

一般にバイクにおいては「数値性能」を購入検討要素とする方はかなりいると思います。この点を考慮して、販売面で数値性能がかなり重要な要素になっております。

そんな中ゴールドウィングは水冷6気筒1800ccという極めて贅沢な大排気量多気筒エンジンを搭載しているにもかかわらず出力は100馬力ちょっとしかありません。パワーウェイトレシオだけ見て「こんなのドン亀のオヤジバイクやんけ!」と考えられている方も相当数おられると思いますし、そもそも「検討対象にすら入らない」というライダーも多いことでしょう。

しかし冷静になって考えると車重400㎏という巨体を擁する時点でもう既に「バイクとしてオカシイ」わけで、「通常のバイクの常識は通用しない」といっていいのです。実際スズキの初代アルトが車重540㎏ですので、400㎏を超えるゴールドウィングを取り回すというのはもう「昔の軽自動車を人力で車庫入れしているのと大差ない」ことになる。よくよく考えると「オレはひょっとしてバカなのか??」という気がしないでもない。

少し路面が傾斜すると顔が「クリムゾンキングの宮殿」になるくらいの剛力が必要になりますし、ちょっと傾けばもうそれを支えるには土俵際の二枚腰かキン肉マン的「火事場のバカ力」が必要になる。もし力尽きて倒してしまおうものなら精神的ショックで「千秋楽で負け越した力士」のようにグッタリとした気分になってしまうことでしょう。(幸いまだ未転倒です。)

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(バイクにのしかかられた時の絶望感はまさに顔面クリムゾンキングの宮殿状態。悲劇以外の何物でもない。

このような常識外の巨体でもホンダの技術力なら200馬力くらい絞り出して、強引にストリートファイター化することもできたと思いますが、ホンダはそれをしなかった。

そもそもそれだけのパワーを設定した上で安全性を確保するには、発生する運動エネルギーを受け止めるだけのシャーシ、タイヤ、ブレーキがなくてはなりませんが、シャーシはともかく巨体を限界域で御しきれるタイヤやブレーキはなかなかない。結局はライダーの技量に頼らざるを得なくなる。かといって、ゴールドウィングを選択するようなベテランライダーが車重400㎏のバイクに「安全性を度外視した過激な運動性を求めるか?」というとそんなニーズはほぼないでしょう。

今年東京モーターショーで発表された新型ゴールドウィングは160馬力(←ブログ書いた当時は雑誌で160馬力と噂されていました。実際は120馬力。)と大幅に出力向上を果たしていますが、これは車体の軽量化と、タイヤの限界を超えたときの対処、つまりトラクションコントロール制御やABS技術の高度化などの合わせ技があってこそだと推測しています。

しかし、現行のゴールドウィングが発売された時点では、そこまでの馬力と車重を安全に制御するだけの技術リソースがなく、それ故安全マージンを十分にとった100馬力に落ち着いたのではないでしょうか。

でも、やむを得ない事情はあったにせよ、馬力を制限したことにより生まれたものもあった。それは「セッティングの調整余力」です。現行のゴールドウィングは馬力制限によって生まれた調整余力をバイクの質感統一にまわしていると感じられる部分が多々あります。

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(余りに綺麗な風景だったので思わずバイクを降りて撮影した一枚。)

「ゴールドウィングの美点」としてまず指摘したいのは、全ての動的性能に不一致や違和感がないということ。細かく言うと旋回する際の倒れ込みとエンジンのパワーフィールの質感、体感などが完全に一致しているのです。どう伝えたらいいのか、ちょっと難しいのですが、言いたいことはエンジンが単に滑らかであるとかそういうことではありません。エンジンのトルク特性や回転上昇感、パワーデリバリーがこの特殊な巨体にあつらえたかのような自然な感じに統一されているということなのです。

喩えるならジャイアント馬場はジャイアント馬場的な動きをしているから安心感がある。ジャイアント馬場がルチャリブレのようなちょこまかとした動きをしていたらおかしいわけです。人間は骨格や筋肉がその体格に合わせて最適化され成長していくので自然に体格にあった無理のない動きになる。しかし、何千という意思のないパーツを組み合わせて、それを乗ったとき違和感がなくなるよう統制するっていうのはなかなかできることではないのです。

以前のブログでも述べましたがこのバイクは「まるで生き物のような無理のない自然さ」で巨体をグネグネと自由に動かすことができます。「ペタペタ寝る」とか「キレがある」とかの表現が、よくバイクの旋回特性を表す言葉として語られていますが、ゴールドウィングの特性を一言で表現するなら「自然」。アテもなく走っているとバイクに乗っているということをいつしか忘れ、生き物の背中に乗っているような気になる。

過去の経験から言って重いバイクというのは「それなりに気を遣う」ものですが、私はこのバイクに特別に気を遣ったことはまったくありません。グロムの方が軽すぎて気を遣うくらい。このバカみたいな巨体を無心でストレスなく制御できるというのは私の技量ではなく、設計の方向性と調教完成度によるものだと断言できます。

数値性能を追求すると必然的に設定出力を制御するための調教になるのですが、数値性能を押さえたことによりゴールドウィングは「人に寄り添う調教」が可能になったのです。

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(もう一枚。昔あったトワイライトゾーンという番組をちょっと思い出しました。)

どんなバイクでも挙動の統一化というのは必ず行われているのですが、それを最高レベルにまで昇華することは現実には困難です。

モデルによっていろいろな制約があり、排ガス規制、音量規制、燃費、要求馬力、軽量化、他社より優れた運動性など、各種規制や販売面の要求により技術的な足かせをはめられ、その結果として一部を削って別の部分に盛りつけたり、バランスに多少目をつむっても最大出力を優先したりで、やや尖ったものになったりする。またそのさじ加減が、バイクのメリハリや個性、味として感じられるともいえるわけです。

そんな中、ゴールドウィングは「無個性か?」と勘違いするくらい、すべてが平均化されているように感じる。しかし、そのバランスレベルの妙味を体感すると「これ実現するのにメチャクチャ大変だったろうな・・いや時間と手間かけすぎでしょ。」と思う。「こういうセッティングしてくださぁい!!」って言われても「こんな破綻のない調教は次元違いすぎて無理です。」とあっさり白旗を上げる自信がある。

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仏像の世界では「仏に魂を入れる。」という言葉が使われたりしますが、ゴールドウィングは数値的には凡庸で糞重いずんぐりむっくりの大仏くんです。しかし長年付き合ってみるとそこに「柔らかな滋味」が詰まっていて、それを懸命に調整していったことがわかってくる。それが頭と体に染みてくる。ホンダのスタンダードはそういう系が多いのですが、コイツはコストを度外視してそのレベルを引き上げた「親玉」です。

機械に「目に見えないナニカ」をじっくり詰め込もうとすると、見識と膨大な時間と試行錯誤が必要になるので、市販モデルの初期型ではそれは不十分であることも多い。それは商品である以上、販売スケジュールの制約でやむを得ないところがあります。しかし、その後迷走することなく(←ココ非常に大事)目指す方向へ改良し続ければ、それは乗り手に確実に伝わる。必要なのは「販売に繋がらなくても、このバイクをコンセプトどおり磨き上げよう」という地道で一途な良心です。

残念なことに、今の大量消費社会では「魂を入れ終わる」までにディスコンになったり、販売台数が上がらないため方針転換を余儀なくされたりして、「これ迷走してんな・・」と感じるバイクも見受けられます。また、モデルチェンジで新しいフレームになれば、調教の細部は一度リセットされるのでまた積み上げなければならない。(ちなみにCB400系、CB1300系は既に魂注入済み領域に達しているバイクですので、私は100万円超でも十分に価値あるバイクだと思っています。)

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(越前海岸。抜けるような青空の初秋の風景)

ゴールドウィングはフラッグシップかつ専用設計で数値性能も追わなかったため、妥協という逃げ道がなかったことや高額で数が出ないので販売側からの要求も緩く、対抗馬もないためモデルライフがきわめて長かったことなども幸いしたのでしょう。

いずれにしてもこういう良さというのはカタログに出てこないし、「ある程度の期間乗らないと染みてこない。」のでややこしい。ゴールドウィングは欠点は見たままでわかり易いですが、本当においしいところはじっくり乗らないとわからない。

表面的なものではなく、こういうところを伝えるのが、真のインプレッションなのだと個人的には思うわけですが、実際伝えようとするとクソ長く主観に満ちた情緒的な文章になってしまうので、なかなか難しいところです(笑)。