今回のお題は「鉄人28号とバイク」という変なもの。まぁハーレーは鉄馬などと呼ばれたりもしますので、鉄人と鉄馬という取り合わせになるんでしょうか・・。
(ハーレーはよく鉄馬と呼ばれますが、イマイチよくわからない。だって馬って感じたことないし・・。で、お前はどう感じるか?そりゃ空冷Vツインのバイクとしかいいようがない・・。)
以前のブログで「鉄人28号が好き。」とコメントした私(鉄人世代ではなく、ガンダム世代なのですが)ですが、あんな古いアニメの一体何が好きなんすか?と問われると特に歌が好きなんですよね。
あ~るときは正義の味方~♪
あ~るときは悪魔のてさき~♪
いい~も悪いもリモコン次第~♪
この部分が好きです。これ初めて聴いたときは「変わった歌詞だな・・。」程度でしたが、大ファンである今川監督の鉄人28号を見て改めてこの主題歌が猛烈に好きになりました。今ではタマーに口ずさんだりしてますねぇ。
鉄人28号は凄いことにヒーローロボットにもかかわらず、主題歌でそれをきっぱり否定しちゃってんですよね。なんせ「いいも悪いも、リモコン次第」ですから。
鉄人には心がない。つまり私心や野心がないんです。「正義の心でパイルダーオン!」はしないわけです。特定の立場を取らないのであっさりとリモコン取られて赤目になり悪さしまくっちゃうわけです。
(基本操作に忠実なところはバイクと同じ。なぜかスズキ的な香りが感じられる)
バイクは私にとって「最高の伴侶」ですが、あるとき突然「無理心中を図る怖い女」に変わる。これまでバイクをどっぷり楽しみながら、恐怖の無理心中攻撃をぎりぎりで躱してきましたので、それが骨身にしみてわかります。
本来機械っていうのはどこまでもフラットなもので、誰の味方でもないんです。
一年戦争のファーストガンダムは連邦からすると「勝利の象徴」のようなものですが、ジオン公国側から見た二つ名は多くのエースの血を吸った「白い悪魔」。
機械は使い手によって、正義にも悪にもなるし、正義や悪は見る者の立ち位置や立場によっても逆転する。この世の中は複雑であり、アニメや特撮の中以外で正義を振りかざす人を私は信用していません。(ちなみにアニメや特撮の中の「正義執行」は大好きです。子供の正義は単純ですから。でも大人の振りかざす正義は大概タチが悪い。)
正義なんて、存在するようでしない蜃気楼のようなものにもかかわらず、人は正義という魅力には抗しがたい。きっと皆「正しくありたい」んだろうと思います。でも常に「正しくある」なんて不可能です。仮に正しい存在であっても反対側から見られたら全く違う評価になる。
私は「正しさ」なんて概念はとうの昔に放棄したので、気楽なものです。「あんたは正しい」といわれてもうれしくないし、「悪人」といわれても悲しくない。ただ人に迷惑だけはかけたくないな~と思ってます。今まで散々迷惑をかけてきたから・・。
「いいも悪いもリモコン次第♪」と、オープニングではやくもケツをまくった鉄人は「純粋な力」であり正義や悪という胡散臭い思想から自由な存在です。
要は「ガォー」という決めポーズと、戦闘力のみがすべて。鉄人はイデオロギーに左右されない純粋な力の象徴なんですよね。鉄人に夢やヒーロー像を乗っけてるのは見ている子供達であって、鉄人自身は「どっちでもないよ~」とハナから言ってるんです。
人間は、イデオロギーや思想に縛られている分、こじれると鉄人やバイクよりよっぽどたちが悪い。それに対してバイクは嘘を言わないし、自分を正しいともいわない。正しくないともいわない。こっちのいうことを良く聞いてくれているようで、気を抜くとあっさり裏切る。裏切られると命に関わるからこちらも真剣に対峙する。この世にこれ以上わかりやすく正直な関係はありません。
やっぱりバイクは最高。
(地元のダム横を経由するワインディング。急激に上がって下がる。クソ重いハーレーでも流す程度なら十分楽しめる。というかローライダーはアベレージが低いところから、十分な噛みごたえがある。車重を受け入れ、面白さや手応えにうまく変換してる。これが長年飽きさせないハーレーの妙味なのかも?)
それと余談ですがもう一つ。良くハーレー乗りを「アウトロー」「1%er」などと表現したりしますが、今の私はこれもあまり好きじゃありません。アウトローってのも一つのフレームのようなもので、結局は秩序の反対側の存在だっていうことです。でも、そんな面倒くさいことを考える意味があるのか?バイクに乗って走り出すだけでいいじゃない?と思っちゃう。
(あ、これはアウトローの人を否定しているわけじゃないですよ。歳食った今の私はいろんなものが煩わしくて、そう感じるというだけなのです。若い頃は私も縛りを拒絶して似たようなことを吠えてました。・・・人は歳と共に変わっていくんですね・・。)
人が自分をどう呼ぼうが勝手ですが、自分が自分をなにかに喩えた瞬間、それは足かせになるような気がします。自分が主張したことに自分が縛られる感じ。若い頃は縛りの外にいることが自由だと思っていました。しかし今の私は縛りの外いるって宣言するのも実は自由じゃないんじゃないか?それは結局「縛りの外にいるという縛り」であると感じるようになりました。縛りの外でも内でも思うままにフラフラしてるのが一番の自由じゃないかと。
(ややこしいイデオロギーより青空と桜が好き。)
良くバイク雑誌で使われる絆なんて言葉も今の自分には「重すぎる」。言葉は昔から言霊といいますが、特定の方向に人を強烈に縛ります。それを「一体感があって心地よい」と感じる人もいれば、「その縛りが煩わしい」という私のような人もいるわけです。
自分が感じているぼんやりとした感覚を、言葉というはっきりとしたもので表現すると何か違うような気がする。
バイクにも自分にもできるだけ重い荷物は積みたくないし、今はどこまでも無印ライダーでいたい。バイクは何もややこしいことは言ってこない。クルマのようにおもてなしもしない。あるがままのバイクと一緒に、ただぼーっと海岸線やワインディングを走っていたいのです。
コメント
コメント一覧 (2)
いろいろといじって来た挙げ句、現在はほぼオリジナル状態に戻ってます。長年同じのに乗ってると、へっちまんさんがいつもおっしゃってるように、「ノーマル」は非常にバランスが良いと言うのを強く感じます。
新しいハーレーを試乗して、バランサーの付いたTC-bは逆に物足りなく感じ、ミルウォーキーは走り始めてから直ぐに「オッ」と思わせるインパクトは有ったけど、一口目から強く味を感じるコンビニ弁当みたいに、いつも乗っていたいと感じるものでは無いような印象を受けました。
「TCなんてもはやハーレーじゃない」と言っている先輩のナックルやショベルに乗せてもらうと、先輩の言う「強烈な個性」を味わう反対側には「痩せ我慢」がセットになっている様な気がするのですが、私にとってはTC時代のダイナには多少重いのに目をつぶれば近所のコンビニにもお気軽に乗って行かれて行き帰りは遠回りしたくなる「ハーレー」です。
「ダイナ」っていいですよね!
へっちまん
がしました