みなさんこんにちは。バイク歴だけが長い、なんの特徴もないモブライダーのへっちまんです。

これまで公道で経験した事故は9回。マゾヒストではありません。単なる運転下手な事故魔です。

バイクの修理費に口からアボラスのように泡を吐き続け、手首を2回折り、打ち身擦り傷は数知れず。9回事故ったということは、10回復活したということで、人生折れまくってるにもかかわらず、バイクに対してだけは我ながら不思議なほどの不屈ぶりを見せています。

これだけ事故ると戸川純の名曲の一節「我一塊の肉塊なり~」という歌詞が身に染みてくる。どんなに頭の良い人でも、超人的な運動能力を持っていても、資産があっても、公道でバイクに乗っていると、予告なく避けられぬ危機的瞬間を迎えることがあります。

それは遠い未来に来るのか、突然訪れるのか、永遠にこないのかはその人の素行と運によりけりですが、バイク乗りとしての人生を歩むのなら、おそらく一生に一度くらいは誰しもが遭遇するのではないでしょうか?

①それはグリップが良い峠道でのフルバンクコーナリング中になぜか一匹の細長い蛇が進行方向をネロネロと横切っているのを見たときかもしれない。

道を横切るへぴ2

②それは深夜バイトの帰り、路肩側から車列をすり抜けているときに、手を上げた酔い客を乗せようと急激に路肩に寄ったタクシーが前を防がれ、フルブレーキングした行く手に黒き「犬の糞」の存在を認識してしまったときかもしれない。

犬の糞


③朝4時頃のがら空きオールグリーンの環状八号線を反社会的速度で飛ばしているときに、トラックが反対車線から禁断のUターン(環状八号線は転回禁止)を敢行し、進行方向前面がトラックの横腹というあり得ない光景を目にしたときかもしれない。

Uターン2

なにこの怪談??って感じですが、これまで数多くの理不尽な厄災に遭遇し、バイクと我が身に笑えない損傷を刻んでまいりました。この経験をもとに降りかかる厄災の対処法というものを体で覚え、その瞬間に至ることはある時期から劇的に減ったように思います。

しかし、5年前に信号待ちの停止状態から、ノーブレーキの車に追突され、「らめぇえぇえぇええぇえぇえぇええええ!!」とスーパー歌舞伎のように宙を舞う事故に遭遇し、「公道では、どんなに注意していても避けようのない運命はあるのだ、バカボンのパパなのだ。」ということを改めて確認いたしました。

このような事故は「人の価値によって運不運が決まるわけではない。そこに根拠や理由などまったくない。」ことを物語っているわけですが、バイクはそんな「当たり前のこの世の摂理」を体の芯から理解させてくれる。

バイクは楽しい。しかし、速度を出せば出すほど、公道におけるリスクは跳ね上がっていきます。事故は非常に滑稽で馬鹿馬鹿しく、周りに大きな迷惑をかけ、悲劇と言うよりもお笑いに近い。危機的状況に陥った理由って「隣のバイクの小僧と目があってムカッときちゃった♡」とか、ホント下らないことが多く、損傷したバイクや怪我と引き換えに得られるものといえば「後日のネタ」くらいで他になにもない。

しかし、この馬鹿馬鹿しくも厳しいバイクの論理は、社会の作った複雑な理屈と異なり「とても分かり易くて良心的で公平だ」とも思うのです。

バイクの「リスクと引き換えに得られる快楽と自己責任の下に許された自由」というシンプルな論理に触れると、「この社会で与えられた自由なぞは、所詮檻の中のまがいものではないか?」と感じる。

人々を納得させるためには真の自由なんていらない。「自由っぽさ」さえあればいい。だからノーリスクの自由もちゃんと成立する。社会はより安全に、より快適に、より自由に、より合理的に発展していく。しかし、それはバイク乗りの求める理想の世界ではないような気がする。

民主主義は選挙で代表者を選ぶので権力は民衆に従い、長い目で見れば我々の望む社会が実現する道理です。しかし、選挙が多数決で決まる以上、権力は多数派の民衆に従うわけで、全ての人に従うわけじゃない。それ故私みたいな変態嗜好の少数派は「この世の多数派が夢みた世界」で生きていくことになる。

学校も文部科学省のお偉い方々が周到に作った組織でありますので、日本中の学童が「多数派の民衆」として、都合よく育つよう周到に練り込まれている。テストの点数により「ひよこ」のように出来不出来を分別された結果、より優等な人々は、巨大組織の中で有能な労働力として採用され、それなりのご褒美を与えられ、私のような劣等種は地べたを這いずり回ることになるわけです。

ギガンティック浣腸器3-2+1
(「遅効性の毒」という珍しく真面目なお題のブログに挿入される、どうしようもないイラスト。毒の治療にはナースのお注射ではないか?というテンプレ的な発想ですが、単にエロいナースが描きたかっただけ。)

表向きは綺麗事を並べても、結局、多数派の価値観と金の流れがこの世のルールを作ってる。そしてマネーパワーを国家にため込むためには良質で優秀な労働力がいるのです。日本がこれだけ発展したのも、日本人が優秀で良質な労働者だからに他ならない。

金っていうのは、RPGの世界でいう魔力とかマナに似たようなもので、ほとんど万能。何にも変えられるし、腐ることもない。どんなハイパワーな凄バイクも金があれば、召喚するのは自由自在。

金を手にすれば大体のことができる一方で、金がなければ冒険にも出られない。優秀なパーティにも入れないし、装備も貧弱。だから、自分が駄目な人間じゃないか?と思い込む。でもそれは「財力という資本主義的な価値観で人を計ることから生まれる錯覚」であって「人の本来の価値とはまったく違う」とやがて漠然と気づくようになる。

一方バイクはそんな面倒くさいことを考える必要はない。スーパースポーツにひとたび跨がれば、老若男女身体能力の如何に関わらず人の限界を超えた世界にいける。車と違い、むき出しのバイクでは「高額車だから乗り手がより安全に守られる」ということはほぼないし、財力はガソリン給油余力とコケた時に搬送される病院のグレードが変わる程度の違いしかない。

そう、バイクには人の本性のみが現れる平等で素敵な世界がある。

でも、こんな素敵な世界を多くの人は拒絶する。人は丸裸にはなりたくない。守られたいし、リスクも負いたくない。財力という防御魔法も取り上げられたくない。だからみんな「バイクは危ない。バイクはやめろ。」と連呼する。

便利で過保護になっていく現代で、世の中は安定志向になり、ローリスク、ハイリターンを夢見るようになっていく。しかし、この世にそんなうまい話があるわけがない。夢のような安全指向と引き換えに、「社会の中に少量の生ぬるい毒」が確実に仕込まれていっているのに多くの人は気づいてない。(その毒の正体については、いずれ書くこともあるかもしれません。)

突発的な死や怪我を過度に嫌う一方で、この世に仕組まれた「甘く優しい毒」を許容するのはおかしいんじゃないかと感じる。なぜなら、即効性の毒も遅効性の毒も「毒は毒」ですから。

若い頃は元気いっぱいでしたが、今は遅効性の毒にじわじわと蝕まれちゃってる自覚がある。この世の中の甘い毒に長く浸っていると、やがて日々に何の感動もなくなり、自分が「生きているのか生かされている」のかすらよくわからなくなる。

バイクはシンプルであるが故に、「この世の生ぬるい毒に対する一時的な中和作用」がある。日々感動もなく、こなすように生きているって、「死んでいるのと紙一重」ではないか?。そんな疑問が頭をよぎる中、バイクという異端の存在が一時の救いになる。


蛇の舌

(蛇の舌の甘い毒で完全に死んだ顔のセオデン王(ロード・オブ・ザ・リング)。長いこと生きてるとこんな状態になることがある。ちなみに私の妻はセオデン王の大ファン。)

バイクに乗っていると、世の中という生ぬるい棺桶からほんの少しの間抜け出せる様な気がする。だから、高齢のライダーが増えているんじゃないかな?と私は考えてるわけです。

バイクって本来年寄りには向いてない乗り物です。私なんて、若い頃に比べてライディングについては完全にヤキが回ってますんで。でも、「毒が回った高齢者ほどバイクという中和剤が必要」なんじゃないだろうか?

リターンライダーが増えているのはブームじゃない。「みんな澱のように貯っていく毒にまみれて、バイクという刺激を投与しないと、リビングデッド状態から復活できないのだ」と私は思う。要は高齢者がバイクに乗るのは趣味の問題ではなく、社会的な問題ではないかと感じてる。

世の中からバイクを見ると、バイクは特殊な存在なのかもしれない。でも、バイク乗りの視点で見ると世の中は随分と複雑で特殊で、欺瞞的ですらあるわけで、それに嫌気がさした人がバイクというシンプルな世界に救いを求めてるんじゃないかと。

そういうところが私が遙か昔から痛い目に遭い、グダグダになりつつもバイクを降りない理由なんかな?と思うわけです。

ちなみに私は最近、社会に蔓延する遅効性の毒がバイクにも徐々に投与されつつあるのを、いささかの危惧をもって見ています。それはバイクを安全にするかもしれないけど、同時にバイクをつまらないものにするような気がする。人間ってリスクが生きる楽しさに繋がってる。ノーリスクな世界では生きる喜びや楽しさは薄くなる。

案外、旧車が売れているのも、古くさいハーレーが売れるのも、そういうものを拒絶する人間の業のようなものではないか?と考えたりしてます。