前回まで新型GLの各機能の具体的なインプレを書いてきましたが、今回はその総まとめになります。

新型SC79の試乗を終えて、「モデルチェンジってのは難しいなぁ」としみじみ感じました。私は「公道バイクのチューニングほど難しく、正解のないものはない」と常々思っていますが、モデルチェンジを「根本から行うスーパーチューン」ととらえれば難しいのはわかりきったこと。

モデルチェンジもチューニングも結局のところ、「どのような地平を目指していくのか?」という方向性が大事なんだろうと思います。その基礎がユーザーの求めるものとズレていれば、その上にいくら正しい理論を積み重ねても、できたモノは結局刺さらないんです。どのバイクも技術的な過程は基本的に正しいんで、そこだけを見ていれば間違っているバイクなど一つもない。しかし、問題は元々の原点、つまり開発のピントやフォーカスが顧客となじむかどうか?そこが重要なんだと考えています。

そのピントやフォーカスも「コアユーザーを対象にしたものか、より幅広い層を対象にするか」で大きく異なってきます。17年の歳月を経て、SC79は多くの新機構をてんこ盛りにして幅広い層に訴求して裾野を広げようとしたのは明らかです。しかし、その新機構が私の中で今ひとつプラスの評価になってこない。コストのかかる新機構を導入したんですから、本来は絶対的プラス評価に繋がらなくてはならないんですけど、そのメリットが自分の求める優先順位的に低いんですよね。

でも、こういう感覚はライダーによって異なると思います。そもそもこのご時世に「空冷が好き」なんて言っている私のような人間は感覚的な気持ちよさとか優しさとか、機械としての熟成度を重視するタイプなんでしょうね。やっぱり人を遠くに運ぶ機械として優秀であるためには「人が使いやすく、人の感覚にあっている」ということが一番ではないか?と感じるのです。

メイドインキャンプ・最終
(いろいろグダグダ書いていますが、私のホンネを代弁して貰いました。実は昨年バイク業界とキャンプ用品業界には、大きな追い風が吹いていました。そうヒットアニメ「ゆるキャン△」です。スーパー原付少女「志摩リン」により、秋口から冬にかけてのソロキャンプツーリングの魅力があまねく知れ渡ることになったのです。旧型ゴールドウィングはあらゆる意味で冬ツー、キャンプには「最強マシン」であり、まさに「ゆるキャン△」はゴールドウィングにしつらえたような追い風だったはずなのです。しかし、新型はユルさよりも運動性能と、コンパクト化による動的性能の向上を目指したため、冬ツーの防風性能と積載性能が旧型より低下してしまいました。その点は時代をちょっと読み違えた選択だったのではないか?と私は感じてます。今大排気量ツアラーに求められているのは冬キャンプツーリングを可能とするような、他のバイクでは得られない大きな包容力であり、高機動ではない気がします。この傾向はバイク文化が成熟してきた日本ではしばらく続くのではないでしょうか?)

その点、新型ゴールドウィングは現段階ではあまりにも「メカニカルに過ぎる」「どっちつかずだ」と私は感じてしまう。確かに快適で性能も良く、速くて安楽なんですが、そこに大きな欠落を感じる自分がいます。それはやはりSC79の開発のピントやフォーカス自体が私自身の求めるものとズレているところに起因しているように思うのです。

SC79の目指したバイクの運転の自動化、省力化が、これまでのゴールドウィングを選択していた層に刺さるか?というと、「ベテランになればなるほどあまり刺さらないんじゃないか?」と感じてます。DCTがバイクのあるべき方向性なら、これまで発売されていたDCTがもっとメインスタンダードになってていいわけですが、そんなことにはなっていない。それほどバイクというのは多様性に満ちている。

DCTという新機構が、ベテランライダーの運転操作による自然さや滋味を両立するのはまだ難しく、安楽さと引き替えに失ったものは結構あるのは間違いない。失ったものと得たものを自分の中で比較して、得たものの方が大きければ新型ゴールドウィングを選択して全く問題ないと思います。でも、私が考えるにバイクというジャンルは車と違って、技術革新によって得られていくものと、それにより失われていくものの利益がかなり拮抗している。

機械というのは年々壊れやすくなるので、本来新しいものが古いものを駆逐していくはずなんです。そんな中で、バイク業界で再生旧車がかなり売れている理由は「旧車を置き去りにするほどの価値を新型車が提供できていない」からであると思ってます。

SC79に試乗する前、「新型に乗ってクラッとこないか」心配していたんですが、新型に乗った後、自分のバイクに跨がりなんとなくホッとしてる自分がいました。バイクってのは進化した機能を搭載したところで、「絶対的に良くなるものではない。」というどうにも底なし沼のような存在だということを再認識したわけです。

それは東大出のバリバリの若手エリート官僚と、農家経営で有機栽培野菜を作っている農ライフなお兄さんとどちらが「人として魅力的か?」という問いかけにも似ている。仕事の効率や優秀さやステータスは圧倒的に前者でしょう。でも快適な文明社会から逃げ出して、テントでソロキャンプしてるような人々が旅ライダーであるわけで、ゴールドウィング購入層はどっちかというと後者側なんじゃないかなぁ・・と思うわけです。

SC79はハイテクを沢山搭載しており、多くのインプレはそれを重要なモノとして取り上げている。でも私にとって「ハイテク自体に全然価値はない」んです。現状でも「SC68で押してないボタンは山ほどある。」スマホをつなげて・・云々という部分にも特段の興味はない。ハイテクにしたことにより「乗ったときの気持ちよさ」が上乗せされた時に、初めてハイテクに意味を見いだすことができるんです。

レーサーなら勝利のために速さを求めどんどん最新技術を搭載すればいい。スピードと操作性を追求するのがレーサーの絶対的価値であり正義です。でも、ツアラーなどの旅バイクは全然違う。ツアラーは人が乗って旅したときに「その道行きがどれだけ気持ちいいか」という感性的な旅情が大事なんです。私が空冷ツアラーのFJ1200を今もって評価しているのはそれ故ですので。

一緒に旅するバイクに求められるのは人という「よくわからんわがままな生き物」に対する「深い理解」です。そこをしっかり作り込むことが大事なんですが、人という生き物を全て理解するのは、おそらく未来永劫不可能です。だから操作性を極限まで作り込み、操作質感や人の感性との同調を重視する方向に注力し、「操作は乗り手の意志に丸投げした方が結局は乗り手の意向に沿ったものとなる」と私は思ってます。

人は吹き付ける風に弱い。寒さに弱い。ゆっくりいい景色が見たい。流れる音楽はご機嫌な音質がいい。エンジンはトルクフルで味わい深く気持ちよく、シートはおしりが喜ぶ、ふかふかクッションが希望。断捨離できないので荷物は積めれば積めるほどいい。でもやっぱりバイクらしくもあらねばならない。そんなわがままな生き物を包み込む器がグランドツアラーであり、ゴールドウィングには「その器としてのでかさ」が問われていると考えるわけです。

志摩リン
(スーパー原付少女「志摩リン」。ジーンズとダウンジャケットとヤマハビーノで極寒の霧ヶ峰を走破し髙ボッチ高原に至る、鋼鉄の意志を持つ屈強なソロキャンパー。へっちまんには到底無理なので憧憬しか感じない。指先チギレないのか??バイクによるお一人様キャンプの素晴らしさを広めた功績は絶大。)

 ミルウォーキーエイトでも感じましたが、やっぱりフラッグシップやエポックメイキングなものって「みんなで知恵を絞って売れるものを作りましょう!」とか「理論的にはこれが正しい!」的な感覚で作っててもダメなんじゃないかな?って思う。それじゃいいものは産まれるかもしれないけれども、刺さるモノは産まれない。世界的な販売競争に勝つだけなら欠点を潰すのが常道になるわけですが、それじゃどうにもつまんないんですよね。「俺はこんなバイクが欲しいんだ!!」という熱いパッションがいるんです。で、私は全ての開発陣にいいたい。

「人が欲しがりそうなバイクを作るより、自分の欲しいバイクを作れ」

と。まぁ営業部がいろいろと横やりを入れるので組織として難しいのかもしれませんが・・。

新型ゴールドウィングでゆるキャンの志摩リンちゃんよろしく秋ツー、冬ツー、ソロキャンプしようとすると、旧型のSC68に積載性も耐寒性も負けちゃうんですよ。だからこのバイクでやりたいことや使い道をもやもやと想像していくと「いや、SC68でいいや」ってなっちゃう。新型で大事なのは速さより、そこら辺じゃなかったのかなぁ??と思っちゃう。

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(ゴールドウィングの魅力は寒風吹きすさぶ1月でも雪さえなければ冬用ジャケットとジーンズでフラッと乗り出せるところ。この点だけでコイツを選んだ自分大勝利!と確信できる。それにしても冬の風景ってその美しさが他の季節の3割増しのように感じるのはなぜでしょうか・・。)

私の乗っているダイナなんてダメダメのダメだけど、

「バイクはこれでいいのだ!完璧に作ることが最良ではない!!これが人が公道で乗るためのザ・バイクなのだ!!異論ある奴は去れ!!ガハハハ!!」

という技術者の高笑いが聞こえますし、旧型のGLも同じく

「私に乗るのに必要な戦闘力は10000です。その代わり荷物を大量に積み、寒風を防ぎ、上質でシルキーなエンジンとバイク離れした乗り心地のよさで素敵な冬ツーを約束します。でも、ハードル高いんで無理な人はCB1300がオススメですよ。ホホホ・・さぁ行きますよ、サーボンさん、ドドリアさん。」

的なユーザー切り捨て感があった。深い共感を得られるものを提供するためには「一定程度ユーザーを切ることはやむを得ない」という割り切りがあったんです。カタナだってゼファーだって、そういう技術者の思いがバイクから放射されてるように感じる。(最近ではGSR750なんかが好きですね~。)

そういう割り切りというか「これでいいんだ!!」的な魂の叫びがバイク乗りに刺さるんです。古いハーレーがブッ壊れながらも再生され、維持されているのは、結局はそういうところ。

「これが正しい!!理屈がなんだ!売り上げがなんだ!!この世にはこういうバイクが必要なんだ!!文句ある奴は来なくてよろしい!!シッシッ!!」


くらいの感覚で設計しないと光るバイクは作れないんじゃないか?。力があっても乗り手に受けようとか、沢山売ろうとかいうスケベ心によって尖ったところがなくなったバイクは私にはなかなか刺さらないんですよね。

私がゴールドウィングやハーレーと長く付き合っているのは、設計者が「乗り手に届けようとした価値観」がしっかり伝わるし、それに共感しているからです。モンキーや大好きモデルのセロー、Vストローム650、FJ1200なども同じです。

私は特定のバイクに対する愛がありません。だからどのバイクでも簡単に見捨てるし、簡単に乗り換える。エンジン形式にも排気量にもメーカーにも全然全くこだわりがない。そんなひねくれた私の選択は、結局、自分がそのバイクの根っこにある考え方に共感できるか?であり、要は個人的な価値観に照らして、単に好きか嫌いか、、それだけなんです。んで、その好き嫌いの理由をここで好き勝手に書いているのが、このインプレってわけです。

だから私のブログは他人にとっては何の価値もありません。そういうことを意識して書いていないんです。私が感じたことを正直に書くと、客観性は完全に失われる。多くの人に不満を与えないように書こうとするとどうしても丸くなる。そこはバイク設計と一緒なんです。でも読者は一体どちらを求めているのか?それが今回の新型の論点ともかぶるのです。私と価値観が同じ人などこの世に二人といないし、同じものに試乗しても同じ評価になることは絶対にありません。だから、私のブログは単なる読み物と思って気楽に接していただければいいんじゃないでしょうか?というかそうして下さい、、、お願いします・・。